■私は私をあきらめます/Ⅰサムエル記13:1~15
今から3000年以上前であるが、パレスティナ地方(当時はカナンと呼ばれた)に短期間であったが帝国が生まれたらしい。
それが旧約聖書の語るペリシテ人の王国だった。
彼らに隣接して住んで居たのが、イスラエル部族だった。
両者は絶えずぶつかり、小競り合い、そして戦争があった。
イスラエル民族が「我々も王が欲しい」という思いに至ったのは当時であったと思われる。
そこで立てられたのが「初代イスラエル王・サウル」だった。
生まれたばかりの王・サウル、名ばかりのイスラエルという王国、まるでよちよち歩きの幼児だった。
何から何まで未知の時間の中で、彼らは彼らの神、ヤハウェを忘れてしまった。
モーセ、出エジプト、律法、ヨシュア、先人からの世代交代が重なる度に神への思いが薄れて行った。
選民の使命と祝福は、神への礼拝と律法の中に生きることにより自覚するものであって、カナン人の偶像礼拝と、目の前の現実に心を奪われていた。
或る日、例によってペリシテ人達が大挙して押し寄せて来た。
イスラエル側には槍、刀などの武器は無く、鍬や斧、鎌だった。
サウル王は焦った。
彼の民兵たちはペリシテ人の力を恐れ、洞穴や岩間に隠れてしまった。
ある者達は士気を失い後退し、ヨルダン川を渡って東へ逃げた。
サウル王は預言者サムエルが来るまで首を長くして待っていた。
サムエルが執り行う礼拝のために、神に捧げる生贄の動物を用意し、一刻も早く兵たちに勇気を受けるべく今か今かと焦れていた。
サムエルからの忠告があった。
「私が着くまでの七日間は必ず待つように。それから王が為すべきことを教えるから。」
だが、イスラエル人の弱腰は増すばかりだった。
英気は削がれ、士気は吹き飛ばされ、既に逃げ散る寸前だった
彼らはサウル王の顔色を伺っていた。
サウルとて、自信無げな兵の様子をみていると彼自身、自ずと足が震えていたであろう。
遂に七日という期限は過ぎた。
だがサムエルは到着しない。
民は散って行こうとしていた。
たまらず王は叫んだ、「生贄をここに持ってこい!」
そして彼は生贄を捧げた。
捧げ終わったその矢先、預言者サムエルが到着した。
挨拶するサウルに向かって、預言者は冷たく言い放った。
『あなたは何と愚かなことをしたものか。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルに貴方の王国を永遠に確立されたであろうに』
ここに旧約の厳しさがあった。
王は王であって、祭司でも預言者でもない。
サウルは神への礼拝として、主に生贄を捧げたのではなかった。
彼は民が散って行くことを恐れて「民の目と心に」生贄を捧げたのである。
私達とて犯してしまうであろう出来事である。
私達は誰を畏れているのか?
何を恐れているのか?
人の目か、神の御目か?
人の口か、神のみことばなのか?
人がそばにいることか?
神の臨在を願うのか?
サウルの焦る思いが分からないではない。
だが、サムエルに忠告されていた言葉は守れなかった。
『私が着いてから、あなたの為すべきことを教えよう。』と言われていたのに。
それはサウルの命より大切なものであったかも知れない。
その重さは、神を神とするか、しないかの瀬戸際であったかも知れない。
だから、キリスト者であるならば、せめてこれ位は覚えていたい。
「鼻で息をするものを恐れるな。そんな者になんの値打があろうか。」
信仰は賭け、である。
自分に賭けるか、神に賭けるか?
人を優先するなら、自ずと神は二の次となる。
私達の旅の最後は、「自分をあきらめるか、神をあきらめるか」という選択に答えることだと思う。
その問いが信仰の初めであったら、当然逃げ帰っていたであろう。
しかし長い人生の中で、見上げる神の偉大さを学んで来て、辿りついたのは何と自分自身のあきらめない本性だった。
今、「その私」を諦めるところに、導かれていると思う。
「私は私をあきらめます。」すると、即座にこの局面で聞くべき、みことばが聞こえて来た。
『私は「私を強くして下さる方」によって、「何でも出来る」のです。』ピリピ4:13