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■ヨナタン/Ⅰサムエル記13:9~14:6

『私達の間でも神のことば(聖書)を聞くことを好む人は少なくない。

しかし、神のことばを選び取る人、それに従って生きようとする人は少ない。

また、神のことばが自分の思いと同じである場合にだけ、従おうとする人はいるが、徹底的に御ことばに従う人は少ない。

「信仰とは自らを神の御心にまったく捧げきる戦い」である。

その戦いをせず、自らサタンの輩(ともがら)となりながら、どれほど神のことばを真剣に聞いても、道端に落ちた種と同様である。』(榎本保郎師)

神の側か、世の側か。

神の側か、人の側か。

神の側か、サタンの側か。

先ず、自分が何処に立っているか、胸と腹で確かめよう。

祭司の家系、つまりレビ人の系図を追ってみた。

ヤコブには12人の息子があり、三男にレビという男子がいた。

彼がレビ族の始祖であった。

レビ族はヤハウェ(神)に仕える祭儀を執り行うことだけが、イスラエル民族に対する奉仕であり職業だった。

だが、日本人が考える範囲の祭司職の軽さは無かった。

彼らが仕える神は生ける神であって、人間が祭り上げた方ではない。

当然、仕える人々は生き方も作法も態度も異なる。

彼らはセレモニー(儀式)に仕えるのではない。

聖なる儀なる、畏れ恐れて余りある「生きた給う神」に仕えたのである。

祭司は人生と命を賭けて、神と民に仕えることを、人からではなく神から求められたのである。

彼らに譲られた土地はなかったが、神が彼らの生きる地であった

だから他の部族は物と思いをもって、レビ族を養う様に神から位置づけられた。

ミリヤム、アロン、モーセの兄弟姉妹は始祖のレビから数えて四代目に登場してくる。

或る日、祭司アロンの息子二人は主の前に灯火を捧げた。

すると、主の前から火が出て、彼らを焼きつくし、二人は主の前で死んだ。

彼らの「ともし火」は主が命じた祭壇からのものではなく、勝手に何処からか持って来た「異なる火」だった。

この恐ろしい出来事の現場で、モーセが兄のアロンに直言している。

「主が仰せになったことは、こういうことだ。」『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。』

聖書は言う。

「それゆえアロンは黙っていた。」(レビ記10:1~3)

私たちからみて血も涙もない神でありモーセのように感じてしまうのは、妥協に易く曖昧な神観の国民性の故だろう。

イエスの十字架の意味はこの事件を通しても伝わってくる。

私はこの箇所を読む度、いつも胸が痛む。

アロンは苦しかっただろう、辛かっただろう。

目の前で二人の息子が焼け死ぬのを黙って佇んで見るしかなかったのだから。

神が彼らを殺したのである。

殺されるだけの大きな罪だったことを、アロンは息子二人の死を通して見せつけられた。

アロンは「神は聖なる神」と知っていた筈だった。

「神の火」は言い訳も理由も、とりなしも、過失か否かも受け付けなかった。

それが祭司の奉仕に対する神の厳しさだった。

絶対に、決して、妥協も、過ちも、生ぬるさも看過されなかった。

生ける神は、ご自身に近づく者を通して、その聖さを現されるとモーセが伝えている。

私達はどうだろう。

クリスチャンは実に神に近い民だ。

イエスを絶対仲介者としているが、キリスト者は限りなく神に近い位置に置かれた。

そして我々は異なる火を主に捧げていないだろうか。

心が伴っているのか、いないのか分からない自分流の捧げ方で、形だけの礼拝で。

だが、私達の中で焼き尽くされた者など一人もいない。

だが、神の逆鱗に触れて殺された者などいない。

なぜ?

新約時代だから?

現代だから?

違う、私達は死ぬに相応しい者でしかないのに、今日も生きていられる。

なぜか?

それは私達の代わりに死んだ方がおられるからだ。

神の御子が、キリスト・イエスが、私の代わりに死なれたからだ。

更に言うなら神が十字架で死んでくださったのである。

イスラエル初代の王サウル下には600人の民兵がいた。

アヒヤという祭司の傍には、祭司服(エポデ)があった。

彼らにとってエポデは「神の臨在」の如きであったろう。

アヒヤは戦の勝利を祈り続けるためにエポデを持ち込んでいたのだろう。

だが王は敵に向かって進むでもなく、突撃のチャンスを伺うでもなかった。

ただ、「ミグロンにあるザクロの木の下」に留まっていた、と聖書は語る。

何を待っていたのか、聖書は語らない。

おそらく、「サウルは止まっていただけだった」と言いたかったのか。

サウルの息子、ヨナタンは道具持ちの若者と二人だけで、切り立った崖の上、非常に狭い場所に敵の群れを見た。

ヨナタンは若者に言った。

「さあ、無割礼の者どもを蹴散らそう。主が我々に味方して下さろう。

こちらが大人数でも、小人数でも神が御救いになるのに妨げとなるものは何にもない。」

道具持ちが答えた、「何でもあなたのお心のままにしてください。私も一緒に参ります。」

二人は崖をよじ登り、敵の只中に突っ込み20人を打ち殺した。

その狭さは少人数の味方で戦うに格好の空間だった。

形だけのエポデに神をイメージし、600人と共に動かなかったサウル王。

生か死の狭間であったればこそ、「主の全能」を信じ、無謀にも戦ったサウルの息子ヨナタン。

父と息子、父には600人の兵、息子の味方は道具持ちの若者一人だけ。

あまりに大きい二人の差。

だが本当の違いは、生ける神の隣在を腹から信じたか信じないかであった。

アロンの息子は祭司職以前に神を軽んじた。

聖なる神の御性質、そして主の求めを軽視した。

老若の違いではない。

生ける神をどこまで信じたか否か、それだけである。

人に宿る信仰は理性が届かない場所に位置する。

なぜか?

神は人間の力、知識や知恵を必要としない。

神が人に求められるのは、神への信頼と従うことだけである。

人の欠点はここにある。

理性が悪いのではない。

人の力が悪いのではない。

信仰とは神を信じて仰ぐ胸(心)と腹にあるのであって頭ではない。

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