■末路・end/第一サムエル記18:1~16
もし誰かが、あなたの持っていない賜物とかタレントを持っていたとして、それを目にした時、あなたは嫉妬しないだろうか?
それとも心から素直に喜んであげられるだろうか?
多かれ少なかれ、僅かに微妙であれ、100%素直でいられない感情を持っている自分があるとしたら、と思わされるのが人間だと思う。
そして、そのとき自分の悍ましき(おぞましき)本性を認識する。
(おぞましいとは、ぞっとするほど嫌な感じ、と辞典は言う。)
キリストを信じて、まことの神に出会った人生においては特にその部分で本性がなんら変わっていない自分を見させられ何とも情けない嫌な思いある。
サウロという男性、非常にハンサムで並みの人より肩から上だけ背が高かった。
そのイケメンぶりは「イスラエル人の中で彼より美しいものはいなかった。」と聖書がいう
程に何処にいても目立った人であった。
但し、外面はそういう人であったが、その内面は全く対象的であった。
サウルがダビデという戦いにおける才能に際立つ青年兵士を見たとき、サウル王はダビデに強く惚れ込んだものだった。
ところが、ダビデが戦いにおいて次々と勝利を得、民と兵士の心をわしづかみにした辺りから、サウルは激しい嫉妬心にかられ、やがて妬みから恨みへ、更に激しい怒りから殺意へと変わって行った。
狭量な心と猜疑心に苛まれるサウルは悪霊にとりつかれ、挙句の果ては心を深く病んでしまった。
人間とは自分の心さえ、自分が思う様には扱えないものだ。
理性と道理、モラルと品性、それらを持ってしても、仮に自制心が崩れたら手に負えなくなる。
もしかして私達は辛うじて自制と心を守りぬいて生きて来た者に過ぎないかも知れない。
だが、忘れてはならない。
キリストの御霊による圧倒的な支えと助けと導きが、今、私達と共にあることを。
憐れなる王かな、がサウルであった。
当時は会堂も教会もなかった。
律法さえ届いていなかった。
現代の様に心理学や精神医学が発展した社会であれ、人は悩んでいる。
健常者として今は生きていても、ひとつ事が起きれば私達は持たないかもしれない。
私達は心を負の連鎖に任せてはならない。
最初に芽生える嫌な感情を、どのように処理するかで普通に生きられるのだ。
内なる深きところは決して強くはない。
小さな飛び火が取りつき、くすぶり始め、やがてメラメラと炎になって、適切な処置がなされなければ、やがて心は間違いなく地獄の業火の餌食なる。
他の誰かに対する妬みを感じた瞬間、自意識を認め改善に努めるべきである。
小さければ小さい程に処置は簡単なのだから。
自分の負の感情を認め、それを否定しないで肯定的な方向に思いを向けるのが良い。
その小さな瞬時の作業だけで、一日が明るくなれるし、他者に対して前向きになれるのである。
その時、私たちは気がつくだろう。
内なるキリストの助けと共生、共存がどれほど自分にとって大きな祝福と恵みであることか。
大いなる悪循環があり、限りなき負の連鎖が人を悩ますとしたら、その真逆な生き方だってある筈だ。
一つ目は自分がキリストに負けること。
自分は限界ある者であり、自己中心であり、主の助けを圧倒的に必要とする者であること。
キリストが共に生きて下さらなければ、正直なんら取り柄の無い者であり、救われようのない者であること。
この様な自分を拾い上げ、罪を洗い流して下さったのは、ひとえにキリストの愛と憐れみ以外に無いこと。
主に負けるという事は、こういうことだと思う。
二つ目、私達は意識して生きていても、神が喜んで下さることが中々出来ない。
仮に出来たと思う瞬間があるならば、傲慢という影が忍び寄るものでもある。
ならば、サタンが嫌がることをしようではないか。
あなたは「サタンが悲しむ生き方」を考えたことがあるだろうか?
あなたは「サタンが悔しがる行動」を考えたことがあるだろうか?
仮にあなたが神の子であるのなら、主の助けによってのチャレンジは出来ると思う。
『しかし、あなた方は神によって、キリストの内にあるのです。』第一コリント1:30
悍ましさ(おぞましさ)の頂点は、他者の幸せを心から喜べないことである。
だから敢えて、幸せなその人に言葉と行動で伝えよう。
「あなたが今、幸せであることを、私は主にあって心から嬉しく思い感謝します。」
その瞬間、私達は勝利するのである。
回復、和解、祈り合い、協力、これらはサタンが最も嫌う連鎖である。