■もんじは殺し、御霊は生かす/出エジプト20:4~6
十戒に興味を示すクリスチャンは少ないと思う。
十戒は厳しい、暗い、遠い昔の律法・・・
だが、イエスは言われた。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためと思ってはならない。廃棄するためではなく成就するために来たのである。」(マタイ5:17)
イエスに於いて十戒は死んだのではなく、生きているのである。
彼だけが十戒を成就された唯一無二の方なのである。
彼しかいない。
彼が生きるところ、十戒は彼において生きている。
人は十戒の前に漠然と死ぬしかなかった。
それ程に厳しい戒律だった。
十戒を初めから文字(もんじ)の順番通りに覚えている人は、どれくらいいるだろう。
イエスを信じて救われた人であるなら、十戒を直ぐに並べられるくらいは当然である。
覚えたからといって褒美など無い。
当然のことを当然の如くに覚えたといって褒美など無いのは当然だ。
「しげおさん、あなたは十戒を知っていますか?」38年前にある人に問われた。
信仰に入って二年程経った頃だった。
「大体ですが。。。」と答えると、「そうですよね、クリスチャンなんだから。」
殆ど、うろ覚えだった十戒が恨めしかった。
当然のことが出来ていなかったからだ。
10個も並んだ十戒を順番通りに覚え、いつでもスラスラ言えるくらい心の板に刻むことは案外面倒だ。
但し、覚え込むことでイエスの十字架は、私の目の前にいつも生きてあるように思う。
私のために。。。私のために、彼が・・・
彼の十字架は私のためだった・・・
自分の罪を思い出すために。
キリストは私のために死なれたことを忘れないために。
キリストによって私が救われたことを思いだすために。
キリストは人類が負うべき「十戒と言う十字架」を背負って下さったことを今日も知るために。
イエスが地上に来られたのは、実に十戒を成就するためだったとは、果たして言い過ぎだろうか?
そうは思わない。
その通りだと思う。
今年のクリスマス・待降節は十戒から目を離さないぞ、と決心した。
それこそがイエスから目を離さないことになるから。
あなたは、もらさず十戒を言えるだろうか?
あなたはイエスの12弟子の幾人かを知っているだろう。
だが、聖書の順番通りに並べられますか?
あなたは12部族を知っておられるだろうか?
12弟子は兎も角として、12部族って覚える意味があるんですか?
と、言いたいだろう。
確かに「たいした理由などない」とでも答えようか。
だが、いつの日かあなたにとって「たいした事」になると、私は信じている。
ところであなたは、世の中の出来事とかメディアの日々の話題を覚えようとしない頭で、よく覚えておられるだろう。
世の中の雑ごとは努力しなくても頭に入って来るが、12部族のことは努力しなければ覚えられないって?何。
ならば多少なりとも価値ありそうな12部族の名前を覚えよう。
クリスチャンです、と言うのならば。
私はへそ曲りだから、他者に言われて行動したくない人間だ。
その代わり、他者から言われる前にしておきたい思いはある。
ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミン、これが12部族であるが、ヨセフはエジプトで死んでしまったので神は彼の二人の息子をヨセフの代わりとした。
それがマナセとエフライムだった。
レビは祭司系部族なので持ち分は無かったが、周りの部族たちからは堂々と恵んでもらえた。
つまりレビ族の持ち分は「神」その方だった。
彼らがカナンの地を12分割した際、マナセとエフライムの二人は領土を与えられた。
感動、感動のヨセフ物語の主人公ではあるが、ヨセフはイスラエルという国名に名を馳せたわけではない。
四男だったユダ部族からユダヤという国が生まれた。
末っ子のベニヤミンがもらった領土は非常に狭い土地だったがエルサレムが乗っかっていた。
神の摂理は思いがけない展開を見せる。
「なぜだろう?」こそ、神のみぞ知る空間である。
なぜ、私が救われたのだろう?
なぜ、こんな奉仕が私に回ってきたのだろう?
なぜ、こんな試練が来たのだろう?
色々な何故にキリがないが、神だけは知っておられる。
それでいいではないか。
知らない、分からないところに妙味を知るべきだ。
知ったからとて「なんぼのもの」では無いかも知れない。
文字(もんじ)は殺し、御霊は生かす(第Ⅱコリント3:6)。
私達は今、もんじ(文字)に仕えているのではなく、御霊の神・キリストの御霊によって生きているのだ。
だから、生きたクリスチャンである。
神を知りたいことよりも、神に知られたことを喜ぼう。
人の知識よりも、神からの知恵の方が重要で価値がある。
信仰、希望、愛(アガペー)の中で一番優れているのは愛(アガペー)と言ったパウロの指し示すアガペーは「イエス・キリスト」その方以外に無い!!