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■主の日は誰のもの/出エジプト20:7~11

イエスがユダヤ人指導者達から特に批判、非難を受けた理由は安息日に人々を癒やしたことにある。

だから殺された、とさえ言えるのだ。

それだけで?とも言えるが、他に訴える理由が無いほどに、イエスの為されることにケチをつける理由が無かったと言える。

結局、理由など何だってよかったのか。

偽証も出来る。

作り事もかぶせられる。

抹殺することが彼らの、否、人類の罪のあがきだったのだから。

 

十戒の四番目、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」

安息日は働いてはならない、それは創造主が六日働き七日目は休まれた日であるから。

十戒はこの二つを高らかに宣言した。

 

だが、イエスは安息日を無視されたのではない。

特に病気の人、生まれつき目の見えない人、手や足が萎えた人達を癒された。

安息日だからと言って、彼らを癒さないことは神の前に相応しいことだろうか。

安息日こそ、人間が創造主を覚えて感謝する時であり、被造物として相応しい行動ではないか。

主を礼拝し、尊び、創造主を称えるのは人間にとって喜びであるからだ。

安息日は人に人生を与えられた創造主を喜ぶためであって、痛みや苦しみを耐えるためではない。

その日が癒しの機会ならその日に癒す。

イエスにおいて、「また明日、来なさい」はなかった。

今が、今日が私達にとって恵みの日、救いの日である。

安息日とはそういう日だと思う。

 

十戒は「神が要求される聖さの尺度」を人間に指し示すもの、ある本に書いてあった。

確かにそうである。

イエスはその十戒を成就された。

イエスだけが成就出来た。

ひとはすべて、十戒の前に打倒されたのである。

完全なる神のひとでしか、十戒をクリヤー出来ない。

それはイエスが完全なひとであり、完全な神であられたからである。

神の御子は神である。

御霊なる神は父として、子として働かれた。

御霊ゆえにそれが出来た。

 

果たして教会が仰ぐ神は父か、子か?

メシヤである。

教会が仰ぐべきは救い主(キリスト)である。

つまり父なる神ではなく、神の子という位置づけを抜けきれないところで悶々とする必要などない。

だとしたらイエスは大いなる神の半身程度なのか?と勘繰りたい。

だから・・・救い主は神であって他にはない。

 

榎本保朗師の神学校同級生の書かれた文がある。

『私と榎本は同志社大、大学院とも同級生として進んだが、当時はさして交わりはなかった。

榎本君は新学生時代から既に二つの伝道所、二つの保育園で働いていた。

それぞれの人世を歩んで十年経ち、私は牧師としての使命感も失い、牧会に行き詰まり、牧師をやって行けないと悲観した時期だった。

私は初めて榎本の教会が開催していた「世光祈りの集い」に出席した。

会場につくと彼は「よう来たのう。」と歓迎してくれた。

彼は私の肩に手をおいて祈ってくれたが、私の頭に滴が落ちてきた。

私より背の高い榎本の涙だった。

それ程に私を覚えて待っていてくれたのだろう。

 

その後、彼がくれた手紙に「祈ることと、御言葉に聴従する以外に道はないよ。」とあった。

こんな落伍者の私の為に、一生懸命祈り続けていてくれたのだと察した。

キリスト者が、牧師が、祈りと御言葉への聴従よりも他のことが重要であるとしたら・・・

「すべてを簡単に失うよ。」と榎本師は言いたかったのか。

 

安息日を守ること以上に、主の日を覚えよう。

イエスがよみがえられた主の日。

教会に行って、礼拝に参加して、兄弟姉妹と交わることは主からの恵みである。

そういう日を積み重ねられることは、人生にとって素晴らしい祝福と思う。

 

日曜を謳歌したい、楽しみたい、したいことをしたい、と昔は思っていた。

33歳までそう生きていた。

朝から未明近くまで働いた後に巡ってくる日曜だった。

クリスチャンになって、これだけは気が重かった。

「なんで、たまの日曜に教会に行かなくてはならないのか。」

だが、数年経過したら、そんな思いはどこかへ消えて行った。

 

日曜は休みの日かも知れない。

だが、日曜はイエス・キリストが死からよみがえられた日である。

この身と心の罪が、人生で積み上げた罪の山がすべて無くなり、イエスの血潮で清められた。

日曜は感謝の日、礼拝を通して主を仰ぎ見る日である。

祈り、聖書の言葉を学び、生ける神を礼拝し、この人生をくださった創造主をたたえたい。

こういう思いを持たずして、勝手気ままに日曜を楽しんだにせよ、人の心は満たされるのだろうか?

 

思い起こせば見方が変わったのは、私の立ち所が変えられたからだと思う。

世の時間と環境だけ見て生きていた時、確かに自分がしたいことをしていたが、それは事後に至って振り返れば得るものなど殆どなかった。

青春時代でさえ、その程度であったのなら、中年、壮年、高齢者になったなら・・・・

増してや牧師という立場を与えられ、教会と共に生きることは驚くばかりの恵みである。

『安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。』

安息日の主はキリストであって私ではない。

 

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