■あなた次第/ルカ 6:6~11
人生はその人次第である。
確かにこの世は思うように行かないが、取り敢えず自分の人生は自分次第である。
私自身、クリスチャンになった時から、信仰の道が自分の思い通りにはまったく行かないことを悟らされた。
聖書を読み程に、聖書の言葉が理に適っているというか正しいのである。
自分はと言うと、何から何まで反聖書的な生き方だった。
そのことだけで自分勝手過ぎたと知らされた。
やがて自分次第で生きる訳には行かずと、聖書に沿って生きることの方が人間らしく思えて来た。
それは当然であるが何となく腹立たしいと思った。
誰に対して?自分とキリストに、である。
今まではしたい放題、やりたい放題が自由と思っていたが、イエス・キリストの道こそ自分が生きる道だと思うと、妙に落ちつかない。
何も教育勅語を読んでいるわけではない。
道徳倫理を学んでいるわけでもない。
聖書とは非常に起伏に富んだ物語であるかと思うと、その隙間、合間に生々しい生き方をする人々がいて、何と私自身の人間探究の手引書の様であった。
神性?神聖?というより人間臭さが、やたらと匂って来るし、極力同感でもあるし、生まれて初めて体験するコイツはまさに神のベストセラーであると思った。
真面目くさっているのでもなく、ふざけているのでもない。
『そこまでしても良いけど、その先は駄目だよ。そこから先は自分で決めなよ。』
「そこ」も「その先」も、自分で見極めなさい。何が良くて何が悪いのかも。
『何でも出来るんだよ、何をしてもいいんだよ。但し、自分の徳と自分の益になることを第一に考えなよ。』と言われた思いがした(1コリ6:12)。
あの日、私は『キリストが示される本当の自由』を知った。
30代半ばまで知らなかったことを。
それ以前は文字通り、罪の奴隷だったと知らされた。
安息日とは神にあって聖なる日とせよ、つまり絶対に仕事をしてはならない日、当時の律法解釈だった。
或る日、安息日の会堂にイエスが来られ教え始められた。
会堂に手の萎えた人がいた。
律法学者、パリサイびと達はイエスが何をするか、じっと様子を伺っていた。
イエスが安息日に癒しでもしたら直ぐに彼を訴え出る積りだった。
だがイエスは既にパリサイびと達の心を読んでおられた。
彼は手の萎えた人に向かって言われた、「立って、真ん中に出なさい」男は前に出た。
会堂の空気が張りつめた。
するとイエスは人々を見回してから言われた。
「あなた方に聞くが、安息日にして良いのは、善を行うことか、悪を行うことか。
いのちを救うことか、それとも失うことか。」
誰一人、答える者はいなかった。
イエスは皆の顔を見てから、その人に、「手を伸ばしなさい」と、言われた。
男性が言われたとおりにすると、手は元どおりになった。
パリサイびと達はすっかり分別を失って、烈火のごとくに怒り、イエスをどうやって殺すかと話し合った。
人々に向かっていわれたイエスの言葉は、彼らの思惑を枠外に外してしまった。
いつもと違う状況が訪れた。
「イエスを訴えてやろう!だが何を理由に。善か悪か、いのちか死か?そんな解釈があったのか?」
ここでもう一つ、考えるべきことがある。
それはイエスの言葉は既に律法解釈から外れていた。
しかし、彼の倫理は決して間違ってはいなかった。
仕事をしていけない、働いてはいけない・・これが安息日の定規(じょうぎ)だった。
だが、なぜイエスは誰もが想像した枠外に目を向けられたのか?
それはイエスが父と一つの神の人、その方だったからだ。
つまり神でしか言い得ない指摘を選ばれたからである。
この世は確かに人間次第である。
だが、結果として戦争と差別と殺し合い、憎しみは尽きない。
それでも神と聖書は、この世界を人間がリードし営むことを求めていると考えたい。
但し単に人間次第、人間中心ではなく、創造主を信頼する下での営みを求めている。
確かに聖書は如何様にも解釈、理解できるだろう。
しかし、生ける神は人間が神の意図を思い計りつつ生きることを願っておられる。
聖書は人にとって理性でありつつも、理性だけにとどまらない。
唯一なる神、生ける神を認め、信じて生きることを求めている。
パリサイびと達は分別を失う程に怒り狂った。
腹の中は燃えたぎり、イエスをどうして殺そうかと話し合った。
それこそ人類が神に対して取った行動、つまりこの世は人間次第であることを証明したのである。