■神の国は今どこに」マルコ4:26~33
「神の国は・・・」で始まるこの箇所、マルコ4章26節が好きである。
イエスはいろいろ言ってくださるが、いまいち掴みどころがない表現が神の国である。
でも、だからこそ好きである。
14年前、ある読者投稿記事が新聞に載った。
自殺志願の若い女性の体験記事だった。
彼女は一緒に死んでくれる相手と話が決まり、先方の支持した場所へタクシーを走らせた。
だが、運転手が地理に不慣れな為か、仕事についてからの浅い経験の為か、スムーズに走れない。
運転手はというと、実直で幾度も幾度も彼女に謝った。
信号で地図を確信し、ガソリンスタンドでは道を聞き、徒歩の人には道を尋ねた。
「すみません、地理に不慣れな者で・・」と謝るも、彼女にはどうでもよかった。
彼女の頭は死に行くことしかなかったから。
だが、真面目一方な運転手の言葉は、彼女にとって温かく感じられた。
ぶっきらぼうな運転手が多い中、「感じのいい人だな・・」とも思った。
どこまでも前向きな運転手と、後ろ向きの自分のギャップが堪らなかった。
ようやく車は目的地に着いた。「すみません、お客さん。とてもメーター通りのお金は貰えません、一万円でいいですから。」
彼女は言った「いいです、全部払います。」彼女が運転手に1万3千円を押し付けて歩き出した時、背中越に運転手の大きな声が聞こえた。
「すみません、お客さん!今度、地理を勉強しときます。」
胸が痛かった。
声をあげて泣きたかった。
今、私はこうして生きている。
相変わらず彼女も家の者も悩まされているが、生きていると。
最後にこう結んだ、「あの時の運転手さん、ありがとう」あの日、あの運転手に出会ったのは神さまがくれた「死ぬな」というメッセージだったのだろうか。
私は、そうだと思った。
何処の神が「死ぬな」と囁くだろう。
人が作った偶像が「死ぬな」言うだろうか。
神の国は私達の周囲にあるが、そこにある、此処にあるとは言えない。
見えない、触れない、形もない、聞こえず、知らず、でも神の国はあるのだ。
「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしている内に種は芽を出して育ちます。どの様にしてか人は知りません。」マルコ4:26~27
そう、どの様にしてか、人は知らない。
それで良い、それが良いのだ。
更に続く、「神の国はどの様なものか、何に例えようか。それはからし種のようなもので、地に蒔かれるときは種の中で一番小さい。しかし、やがて生長して鳥が巣を作れる程になる。」
幾ら小さくとも目に見える種。
種だから、その中には命がある。
地に蒔けばやがて芽を出し、根も張り、その存在に人は驚いて見上げるのである。
神の国とはそういうものだ、とイエスはいわれた。
そしてふと気がついた。
神の国は・・・
イエスである!
彼が言わなかったこと。
自分は神の子であると。
そしてわたしが神の国であるとも言わなかった。
言わない訳があったのだ。
当時のユダヤ情勢はローマの支配下、不穏で一触即発の時代だった。
だから、ローマ政府は反乱や暴動には特に敏感だった。
そういう時代にイエスは来られた。
イエスが最も恐れたことは、政治利用されることだった。
だから彼は常々言った、自分のことを。
「ひとの子は」と。
神の国はイエスである。
彼において、神の国は来ていた。
私達を神の国へ招く方はイエスしかいない。
神の国を窺い知る鍵はイエスである。
イエスご自身が神の国であるからこそ、神の国は来ていると言われた。
『神の国とその義を、先ず第一に求めなさい。』マタイ6:33