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■本当に必要な方はイエスだけ/Ⅰコリント10:1~17

『昔、イスラエルは雲と海とで、モーセにつくバプテスマ(洗礼)を受け、みな同じ御霊の飲み物、みな同じ御霊の飲み物を飲んだ。その御霊はキリストであった。』

パウロが、この様に説明したのが第一コリント10章である。

 

だが、イスラエルは御霊の神ではなく、目に見える神々(偶像)を作り、食べては飲んで踊った。

人間とは、いとも簡単に自分の神々を作る生き物である。

そして人が魂と「肉だけの人生」で終わるのは悲しすぎる。

人間は宗教を求め、信仰を求めるという霊性つまり「隠れた本能」が有ると思う。

ゆえに心の拠り所を模索し、神の存在を空想するのであろう。

ただ食べて飲んで、快適な生活をして、身体を喜ばせるだけの人生では物足りない、やるせない、と考える。

 

それにしても雲と海という壮大なバプテスマを通りながら、人は偶像を作れるのだろうか。

そう、彼らは作ったのである。

では、クリスチャンなら偶像は作らないのか?

勿論、「金の子牛」は作らないだろう。

だが、御霊の神の如くに信頼してしまうものが、心惹かれるものが、支配されてしまうとしたら、それらはすべて偶像である。

偶像の恐ろしさは、私達人間に対して偶像のイメージを意識させず、人の内なる深い場所に鎮座しており、いつの間にか人を支配していることだ。

金の子牛は目に見えたが、本当の偶像は目に見えない。

 

「創造主が土地のチリで人を形づくり、その鼻に「いのちの息」を吹き込まれた。そして人は生きた者となった。」 創世記2:7

アニメでさえ表現しない様な、創造の過程を照れず、悪びれもせず、堂々と描く聖書とは、何とも凄い。

ましてや珍妙奇怪にさえ思える、そのストーリーには疑うことどころか納得せざるを得ない真理が潜んでいる。

 

人間だけが神から霊性を与えられた。

『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。』と神は仰せられた。

そして、御霊の神の御意志は見事に結実し、人は創造された。

エデンの園で人は自分達の創造主を知り、実に平安だった。

つまり、飲んで食べて、肉体的なその営みに満足するだけでなく、心の安らぎによる満足を謳歌していた。

人は自分で意識出来ない程に幸せだったのである。

初めの男女が禁断の実を食べて、神との約束を踏みにじるまでは。 

 

姦淫、偶像崇拝、神を試みること、むさぼり、つぶやき等、限りなきこれらの行動は、人間とは本当に誘惑に弱い、ということだった。 

それらは新約時代とて同様である。

『あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。

神は真実な方ですから、あなた方を耐えることが出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。

むしろ、耐えることが出来るように、試練と共に、脱出の道を備えてくださいます。』

この句は、2千年前から今日まで数えきれない人々を励まし、慰め続けた言葉である。

私にせよ、この人生で数えきれない程に暗誦し、多くの人達に分かち合ってきた。

 

では、この聖句はどういった経路で語られたかと言うと、実に「偶像礼拝に警鐘を鳴らす章」の中で語られたものである。

『神は真実な方ですから、あなた方を耐えることの出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。』

つまり人は偶像礼拝に関して非常に軟弱で隙だらけの部分を持っているが、決してその力に負けてはならないし、その誘惑自体は耐えられないものではないと言っている。

あなた方の信仰の先輩たちも皆すべて戦って来たのだからと。

 

『むしろ、耐えることの出来るように、試練と共に、脱出の道を備えて下さいます。』

最後のこの節こそ、珠玉の言葉であり、深い真理を秘めた言葉であった。

私は40年間、その終わりの部分を今ほど深く心に留めなかった。

 

つまり自分勝手に想像していたことは・・・

神は、いつ、どのようにして、脱出の道を教えてくれるのだろうか?

それは試練に応じた、若しくは問題に応じた、様々な解決の道なのだろうか?

人によって、苦しみによって、異なる道を緩急交えて提供されるのだろうか?

「うん、きっと、そうだろう。」と思っていた。

 

或る日、主が語られた。

それは「脱出の道こそ、イエス・キリストである。」ということ。

あらゆる人生において悩みは果てしない、つまり試練の種類は山とある。

生きることは悩むこと、悩むことは生きること、それが人生である。

そして、すべての試練や問題に対して提供される最高の脱出の道とは。

その道こそ、イエス・キリストである。

父なる神が人類すべてに与え給うた脱出の道こそ、イエス・キリストである。

イエス以外に、この世の問題からの脱出道は無い。

場合によって、絶命に至り行く人が聞く秒針の音。

死だけが脱出の道としか思えないとき、

または、すべての打つべき手を打ち終わった際の最後の祈りは。

「主イエスさま・・・」しか、無いのである。

だが、その御名は単なる看板では無い。

二つと無い御名、救いの御名、それはイエス・キリスト。

聖書は言う、『彼に信頼する者は決して失望させられることがない。』ロマ書10:11

『この方以外に、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名の他には、私達が救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていないのです。』使徒4:12

 

 

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