■私の主、私の神/ヨハネ20:24~31
二年ぶりに早天礼拝をもたせていただいた。
1985年、当教会が集まりを始めた時期はイースターに近かい日だった。
そこで、近くの大きな公園の豊かな自然の中で、昇る朝陽に照らされながら集会の出発と、よみがえりのイエスを感謝して野外礼拝をしたと聞く。
それ以来、ずっと欠かさずイースターには先ず、早天礼拝を開催してきた。
世の中の教会には、毎日欠かさず半端なく早い朝に、早天礼拝を行う教会がある。
そういう教会に比べると、怠け者の朝寝坊牧師の私にとって、イースターの早天は微妙にきつかった。
またイースターには教会員全員参加の愛餐会がある。
ひとり必ず一品の料理持参ということもあり、「大変だ~」のしわ寄せを早天礼拝のせいにしてみた。
或る意味、とんでもない教会である。
礼拝よりも飯を優先するとは・・・
ま、気分転換にということもあり、昨年の早天は休んでみた。
ああ、その代償は何と重かったことか。
一年一度の早天に間に合わせるとしたら、朝陽が昇る前から身支度が必要である。
だが!その朝はいつもとは絶対に違うものがある。
言葉で表現できないワクワク感というか、腹の底からの喜びというか、或る意味寒気に通じる喜びの大波小波が押し寄せるのだ。
すべては主のよみがえりがもたらすものだったのであるのに。。。
それらすべてを覚えられる貴重な朝を、私は一年で一回だけのチャンスなのに、安易に逸してしまったのだ。
あれから一年、悔い改めて原点回帰したのが、2018イースターである。
遠い昔のあの朝、婦人達はイエスの御身体に香油を塗る為、暗いうちに墓に向かっている。
心配事はただ一つ、墓の口に置かれた大きな蓋石をどうやって転がそう、であった。
イースターの一番初めの朝は、悲しみと迷いと絶望に押し潰されそうなものだったのだ。
食事ではなかった。
だが、墓石は既に除けてあった。
中を覗いたがイエスのご遺体は見当たらない。
「どうして?」
そのとき、マグダラのマリヤは後ろからの声を聞いた。
「彼は此処におられない。彼はよみがえられたのです。」
何が何だかわからず、見当も理性も間に合わなかった。
恐ろしかった。
悲しかった。
泣けた。
そのとき、彼女の前に、誰かが立った。
「マリヤ・・・」と、呼ばれた。
彼女は返した、「ラボニ?」(先生?)
イースターがもたらした驚きと勝利と喜びの叫びは、以来2千年続いている。
イースターは人類にとって、何物をもってしても、変え難いものがある。
その価値を計る「ハカリ」などこの世に無い。
誰が神という方を量れよう。
イースターの意味と力を知らない人たちは地球上に多数おられる。
だが、すべての人類は知るだろう。
イースターがなければクリスマスはなかった。
キリストの教会も、讃美歌も新約聖書も無い。
クリスチャンなどまったく不在。
素晴らしい楽曲、小説、絵画と彫刻、思想、人生、挙げきれない財産は存在しなかった筈。
なぜそれらが今、世界にあるのか?
多くの人は知っている。
二千年という歴史の中で、人類が神の満ち溢れる恩恵と祝福があったのは、イースターという『主イエスのよみがえり』であったことを。
死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ、おまえのとげはどこにあるのか。