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■子よ、汝の罪赦されたり/ロマ書1:16~28

人にとって人生と心と体に沁み込んでしまったものを捨てる、変えることは難しい。

仮に、幾ら聖書が何と言おうと、きっと人々は反発するだろう。

しかし、あなたがイエスを信じたクリスチャンだったら如何ですか?と、問いたい。

それでも駄目かも知れない。

そう、ではあなたにとって「本当に大切なことは性か神か」と問われたら?

同性愛、非常に敏感で深刻な深い問題である。

環境の中で、生まれて成長する過程において、望まずに変わってしまった性に対する考えも少なからずあるだろう。

だが、聖書は同性愛に対して簡潔に「NO」である。

人々が、その人生と生き方をどれほど神から問われたにせよ、変えられないものがあるのだろう。

だが、NOである。

ここ30年、40年でいきなり社会の陽の下に広げられた様な同性愛問題。

それは遠い昔から人の闇であり、沈黙であり、本当に天国だったのだろうか。

何よりも大切なことは、問題を背負ったままで、キリストの胸に飛びこめたら人生が変えられるのに、である。

 

45年程前の話、つまり私がクリスチャンになる前の出来事である。

私達夫婦が立川市にあった米軍基地に自由に出入り出来た時代。

幾人かのアメリカ人と友達になった。

その中に20歳そこそこの女性兵士がいた。

名前も忘れたし、顔もはっきりと思い出せない。

但し、彼女は同性愛者だった。

それだけは教えられていた。

ただ私の中で特に嫌悪感を持ったわけではなかったが、違和感だけはあった。

 

ほんの短い期間、彼女と顔を合わせたことが幾度かあった程度。

彼女がある朝、突然に私の家を訪れた。

玄関ドアを開いた途端、今まで見たことが無い様な、輝く彼女の笑顔があった。

彼女は東南アジアへ出張していたとのこと。

その際、彼女はイエスを信じるチャンスに恵まれたらしい。

彼女はキラキラした面持ちで「私は新しく生まれ変わった!」と言った。

続けて言った、「私はもうレズビアンではありません!」

 

私には左程のこととは思えなかった。

それが45年前のノン・クリスチャンである私の感想だった。

だが、クリスチャンになって自分の罪を理解し、そして神が忌み嫌われることが理解できるようになったとき、現実社会と神の意図する構図のギャップに迷った。

だが、神は既に遠い昔に答えを出しておられた。

 

ヨハネ3:16『神はその一人子を与えるほどに、この世を愛された』という下り、この世の人達に対し、創造主はすべての存在(人間)を愛しておられる。

神への信仰有る無しに関わらず、すべての魂(人間)を愛しておられる。

そのために、ご自身の一番大切なひとり子を失うことまで厭わなかったのだ。

 

だが、神は「私達人間がしている色々」まで愛されたのではない。

私が罪を犯しつつ、イエスを拒んでいたときだって、私そのものを罪あるままで受け入れて下さったが、決して私が犯す罪まで愛されたわけではない。

ましてや今、私は主というお方を少なからず知り、そして神が嫌われる罪も多く知っている。

 

創世記、ソドムとゴモラの街に対する神の怒りの裁きは凄まじかった。

天から硫黄の火を主が降らせた、と聖書にある。

アブラハムはそれらの街のために必死に執り成しをしたが、神の目に適う正しい人は皆無だった。

その街に住んで居たアブラハムの甥のロトと家族は御使いによって辛うじて脱出した。

山の上に逃れたロトの娘たちは自分達の将来に不安を覚え「せめて子供を残したい。」と考え、父に酒を飲ませ酔わせ、父によって孕んだ。

凄まじい罪の街の空気に染まった娘たちは、凄まじい罪さえも既に見極められなかった。

 

イエスはソドムに関して語られている。

『カペナウム(ガリラヤ湖北岸の町)、どうしておまえが天に挙げられることが有り得よう。ハデス(永遠の滅び)に落とされるのだ。おまえの中で為された力ある(神の』わざが、もしソドムで為されたのだったら、(ソドムはきっと悔い改めて)今日まで残っていたことだろう。』(マタイ11:22)。

 

つまり、キリストが当時のソドムに来られたなら、そこで神のわざが為されたならば、悔い改めがソドムに起こり、ソドムは救われていたのに、ということである。

カペナウムの町びとはイエスを直に見、神の国の話を耳にし、キリストの不思議を目の当たりにしたが、悔い改めに至らなかったことに対する惜別の言葉だった。

 

同性愛に関して、聖書は厳しい。

だが、イエスはその人たちを間違いなく愛しておられる。

故にイエスを信じて救われて欲しいと神が懇願しておられるのだ。

私達とて彼らの救いを祈らねばならない。

キリストは私達と同様に彼等のためにも十字架に架かられたのであるから。

 

創造主は人間を男と女に造られた。

結婚とは男と女のためであり、父として母として、子供を育て家庭を築き、人類の繁栄を神が願っておられる。

「産めよ、増やせよ、地を満たせ。」

この体系が崩れつつある。

夫婦が同性であったとしたら、両親が二人とも男性であったら、若しくは女性だったら??

子供達は何をみて、どう育つのか?

社会はどうなるのだろう。

自由とはそういう世界のためにあるのではない。

 

『すべてのことはしてもよい、しかしすべてのことが徳と限らない、有益とは限らない。私はどんなことにも支配されはしない。』第一コリント6:12、10:23

パウロは「私はどんな事にも支配されはしない。徳であること、(神にとって)有益であることだけを選ぶことが出来る」と言った。

これ以上の自由観など存在しない。

ソドムとゴモラは、神が敷かれたボーダーラインを踏み越えた。

 

イエスの言葉。

「子よ、あなたの罪は赦された!」(マルコ2:5)

創造主は仮にどんな人でもすべて「子」として扱ってくださる。

そして神は人を慈しんでおられる。

だから、神に帰属するのが良い。

神から離れて人は生きるすべを知らない。

神に帰るところから、人は人としての生き方が出来ると思う。

性は創造主が人に与えたものである。

人間に与えられた性は他の被造物と違って子供を産むためだけではない。

性は神が人に与え給うた大いなる祝福である。

しかし人の性は今や、そのものだけで偶像化され、人類は大いに悩んでいる。

 

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