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■あなたは神の国から遠くない/マルコ12:18~34

新約聖書の福音書に登場するユダヤ教の二つのグループがサドカイ派とパリサイ派。

それぞれは信じる内容も方向性も、彼ら自身の生きる場所も異なっていた。

サドカイ派は祭司系の裕福な環境からの人達であるが、霊性に関しては非常に冷めたものであった。

つまり死後の世界とか、死者の復活、そして霊感とか御霊といったことは信じていなかった。

一方のパリサイ派は律法には非常に熱心であり、層としては一般的な手工業者の人々が主であったらしいが、霊性とか聖霊に関しては信じていたようだ。

このように比較すれば真っ向から向かい合っているような二派だった。

皮肉にも共通していたことは、イエスに対して非常に否定的なことだった。

 

或る日、サドカイ派の者がイエスに向かって議論を吹っかけた時のこと。

サドカイ派は、死者、後継ぎ(世襲)ということを、あくまでこの世の道理でしか考えられなかったからである。

当時のユダヤ社会では、長男が男の子を残さず死んだら、次男は長男の嫁を妻とし後継ぎを残すべきであるが、次男も子を残さず死んだら三男が兄嫁を娶る。

そうやって7人の息子が全て死んだら、嫁は誰の妻になるのかというものだった。

そこでイエスが彼らに向かって「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。」と言われた。

「そのような勘違いをするのは、聖書も神の力も知らないからだ。」

 

ここでもっと大切なことがある。

イエスは旧約聖書から神のことばとして「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と紹介された。

私達も勘違いしている部分である。

神は「わたしはアブラハムの神であった。イサクの神であった。」とは言っておられない。

つまり、アブラハム、イサク、ヤコブは今もなお、神の下で生きていることになるのだ。

彼らは死んで滅びたのでなく、肉体は死んで骨になったとしても、霊は今も尚神と共にあるということだ。

そういえば、イエスが十字架に架けおつきになるとき、どうか私を思い出してください。」

と言った。

じつに謙虚な言葉であったが、イエスは彼にこう言われた。

「アーメン、アーメン(まことに、まことにあなたに告げます)、あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます。」

 

人間の見る信仰の視界と視野は何と狭くて限界あるものだろうか。

イエスは私達が生きる今、私達の主であり、私達がこの世を後にしてからも、私達の主であられる。

とすれば、やがて後、神の国において私はアブラハムに逢えるし、ヤコブにだって逢えるのだ。

サラにもイサクにもリベカにも逢える。

こう思うだけでも、今までよりもはるかに広大な視界となる。

ああ、今なお神の世界と言葉を理解していない狭量な心と、この世の限界ある道理だけしか見えない視野だと認めざるを得ない。

『神は死んだ者の神でなく、生きている者の神である。』

 

生きた者とは、この世に生きるだけでなく、神の御前に生きる人のことである。

死んだ者とは、身体は今、生きているにせよ、イエスも神も信じない人のことである。

信じないのでなく、おそらく信じられないのであろうか。

私は40年前まで神を信じていなかった。

だが、1978年3月12日の午前、主は確かに私の前に立って下さり、そして語られた。

「あなたはアブラハムの信じた神を知っているか?」

「いいえ」

「あなたはアブラハムが神を信じて取った行動がとれるか?」

「いいえ」

「あなたはわたしを信じるか?」

「はい、信じたいです。」

その夜、私はアブラハムの信じた神を受け入れた。

そして、その三日後にイエスの十字架と復活を理解した。

主が私の罪を見させて下さったから。

そして33年間、唯一、まことの神から離れ、自分中心に生きて来たことが罪であったと理解した。

 

神は生きた者の神であって、死んだ者の神ではない。

サドカイびとは決して「アブラハムの神、イサクの神」を理解出来なかった。

 

パリサイびとは神がモーセを通して与えられた律法に関しては、特にこだわった。

モーセという名前に敬意を払ったにせよ、モーセが生きた様に生ける神に仕える信仰には目もくれなかった。

結果、彼らはイエスに対して受け入れる柔軟性と、イエスを理解する霊性もまったく持ち合わせていなかった。

結局、サドカイ派もパリサイ派も神が生きておられるという信仰は持ち得なかった。

私達クリスチャンは、このことを反面教師として向かい合うべきと思う。

なぜなら、クリスチャンこそがサドカイ人、パリサイびとに成り易いからだ。

もう既になっているかも知れない。

私は今日、本当に生きた信仰だろうか?

シンプルにこのことを自問自答したい。

しかし、正解は常にキリストから戴かねばならないだろう。

生けるキリスと歩むとすれば、自分こそが生きた信仰に生きねばならない。

「神は生きている者の神であって、死んだ者の神ではない。」(マルコ12:27)

 

(マルコ12:24)イエスは言われた、「こんなことが分からないのは、聖書も神の力も知らないからではないですか。」

 

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