■主に明け渡した人よ、汝の名は母なり/Ⅰサムエル記1:12~28
サムエル記の主人公、サムエルは預言者であり、最後の士師(さばきつかさ)であった。
預言者として、主のお膝元で仕えるが如く忠実な人であったし、士師として民を神の下に導くべく強烈な霊性と力を与えられた人だった。
そういう稀なる人として成長したことには、特異な過去があった。
ハンナ(サムエルを産んだ母)は不妊の女性だった。
彼女の夫エルカナは裕福であったしハンナをこよなく愛していたが、彼にはもう一人の妻があった。
その女性ペニンナには夫エルカナの子供が5人近くもいた。
ペニンナは独占欲の強い女性で、子どものいないハンナに対し、面当てがましい態度をこれ見よがしに取って見せた。
ハンナはその都度、深く傷ついたが、夫にだけは涙を見せぬ様、日々耐えて過ごしていた。
年に一度、彼らは「シロ」にある神の宮に上り、主への捧げものを携えた。
自分と子供たちの数だけ、捧げ物を用意したペニンナは、自分の物一つしか持てないハンナに向かって、ここぞと言わんばかりの得意げな態度をとった。
それはエルカナの愛が自分よりもハンナに強く傾いていたからである。
ハンナにとってシロの宮参りは哀しさと惨めさで、心は張り裂ける程だった。
年に一度の宮参りであったが、それがもたらす重荷は、一年中彼女に圧し掛かっていた。
或る日、ハンナは宮で激しく泣いて神に祈った。
それは神への誓願の祈りだった。
「万軍の主よ、もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、男の子を授けて下さいますなら、私はその子の一生を主に御捧げします。」
それは壮絶なる誓いであり願いだった。
それ以上のものが無い程の祈りだった。
一番欲しい男の子が授かったら、その子の人生を神に捧げるというものだった。
そして心のすべてを注ぎだして祈ったハンナの顔は、もはや以前の様では無かった。
サムエル記1章19節、『主は彼女を心に留められた。』と書いてある。
やがてハンナはみごもり、男の子を生んだ。
名をサムエル(彼の名はエル=エル=神)と名付けた。
神のもの、という意味をこめて、ハンナがサムエルと呼んだのである。
そして数年間、子が乳離れするまで彼女は宮に上らなかった。
遂にその日が来た。
彼女はシロの宮に上り、祭司のエリにその経緯を伝えた。
「以前、この子のために私は祈ったのです。主は私の願をかなえて下さいました。
それで、私もこの子を主に御渡し致します。この子は一生涯、主に渡されたものです。」
ハンナとエルカナは主を礼拝し、宮を後にした。
幼子サムエルはひとり宮に残され、エリの元で主に仕えた。
乳離れというから4歳程度だろうか。
一番、母の愛情が恋しい、欲しい年頃でサムエルは母と別れた。
言葉が話せるようになった可愛いサムエルを、宮にひとり残して帰ることは、母にとって我が身を引き裂かれる思いであっただろう。
しかし、あの日の誓願は生ける主に向かって立てたものであり、如何なる状況が来ようと地に落ちるものでは無かった。
サムエルは幼いながらも、その厳しい運命を小さな胸で受け入れた。
ハンナが主を信じたので自分を身籠り、自分は「主だけに仕える」者と決めた。
「それがすべて」だった。
自らの選択云々ではなく、自分の一生と命は神の御意志の賜物である、をすべてとした。
サムエルに母への不満など微塵もなく、ひたすら主の前に生きる者となった。
主はサムエルの心も体も守られた。
文字通り、サムエルは神のものとされた。
そして主はサムエルが死ぬまで、まるで相棒の如くに扱われた。
主は其の後もハンナを祝したので、他に三人の息子とふたりの娘を産んだ。
クリスチャンとて、その人生で様々な重荷を負って生きている。
それは自分で背負わねばならない重荷かと思うが、本当にそうだろうか。
神の前に、本当に下せない重荷だろうか。
『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう。』マタイ11:28
イエスはそう招いておられる。
ならば、どうして主の元へ行って重荷を下ろさないのだろう。
まさか、遠慮しているのではないと思う。
もしかしてイエスが信頼出来ないのだろうか。
ハンナは幾年も背負い続けた重荷を主の前に下したではないか。
彼女は重荷だけでなく、自身さえも主の前に置いた。
あの日、宮からの帰り道、彼女の顔は以前とは違ったと書いてある。
それは自身が最も重い重荷だったからではないか。
クリスチャンとは本当に恵まれ祝されている人たちだ。
そして「一番大切なことは、キリストとの関係」であることをご存じだろうか?
教会との関係、社会での人間関係、家族との関係、そして自分自身との関係、様々あるが一番大切なのは「あなたとキリストの関係」である。
クリスチャン、つまりキリストの者となったのであれば、最初から最後までキリストとの関係が重要であることは自明の理ではないか。
それ以上の大切な関係など無い、とさえ言える。
キリストとのRelationship(関係)がうまく行ってないのであれば、必ずどこかに撓み
(たわみ)、軋み(きしみ)が出てくる。
ハンナは母として、妻として、何年も悲しみ苦しみ涙を流した。
そして彼女は遂に勝利した。
『主に、自分と自分の重荷を明け渡す』ことによって、である。
他に無い!