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■私のイエス観/ヨハネ17:1~10

遠い昔、伝道者は言った。

「私は事業を拡張し、邸宅を建て、葡萄畑を設け・・」(伝道者の書2章)

これって、本当に遠い昔のことか?と錯覚してしまった言葉である。

「私は目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをし・・」

人間社会の昔と今は全く同じでないか。

「しかし、私が手掛けたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんとすべてが虚しいことよ。」つまり、伝道者は嘆いている。

 

なにも事業を成功した人すべてが嘆いているとは言わないが、果たして人の一生とはなんだろう。

詩篇の作者が思わず「ふぅ~と息を吐いた」か、どうか分からないが・・

「主よ、あなたの指のわざである天を見ますのに、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」詩篇8編3節

彼は間違いなく迷っているのだ。

 

主よ、なぜあなたはそれ程までして、人を思い、人を愛して下さるのですか?

時として、クリスチャン達が独り思いを馳せる時もあるだろう。

神の愛の高さ、深さに圧倒されるのだ。

答えになるかどうかは分からないが・・

それは、「神が人を造られた」だからである。

創造者はご自分のわざによって、人間とこの世界を造られた。

光を呼び出し、夜と昼を分け、自然界と生き物を造られ、配置された。

被造物世界の中心に創造者はひとを置かれた、だから神は人に対し、愛おしいと思われたのである。

 

神の最高の愛、それは御子イエスをこの世に遣わし、人類を罪から救済するためにイエスを十字架につけ、罪の贖いの代価とされたことである。

それは全ての人類の為だった。

クリスチャンの為だけではない。

キリストを否定する人、拒む人、無関心の人を含めたすべての人のためだった。

だから、どんな人でもイエスをお迎えするとき、十字架の贖いの対象となって救いに至るのである。

 

人は個体である。

一つの独立した生物体であり、細分化不可能であり、一つの体を持ち、生命現象を営む構造と機能を持つ。

自然界の生き物とて同様の共通点を持つ。

そして神は御霊なる存在である。

個体では無い。

父なる神、御子なる神、聖霊の神、すべて御霊なる神である。

イエスが地上で働き、語る際に彼は「わたしがすることは父がすることであり、父が語ることはわたしが語るのである。」

と、仰せられたが全く問題ないのである。

個体なる人間の道理と価値観は御霊の神には当て嵌まらない。

だから、クリスチャンは主を考える際、この世の道理と価値観は脇に置かねばならない。

ついつい、人間の知識と物差しで神さえも計ってしまいたいのは人間の性でもある。

神の立場を人間の側に持ち込むことは出来ないのだから、人が神の側をおもんぱかることが必須である。

そのために信仰を賜ったのである。

 

日本人クリスチャンは「神さま」「神さま」と年中連呼する。

決して間違ってはいないのであるが、もうそろそろ「イエスさま」「イエス」と呼んでも遅くは無い筈だと思う。

なぜならイエスがこの世に来られて既に2千年経ったのである。

待ち焦がれた新約時代となったのに、いまだに「かみさま」だけが呼名ではないと思う。

第一、森羅万象、八百万(やおろず)の神々を即座に信じ込んでしまう、この国の人々が口にするのが、すべて「神さま」なのである。

そこでクリスチャンも同様の呼び方をすると、クリスチャンでない人に違和感なく共有されてしまうだろう。

欧米人はっきりと「JESUS」(イエスが主)と言う。

特に呼名とは、その時代の人が何を信じ、何を頼って生きたかが現れるものだ。

遠い昔、「わたしの名は『有って有る者である』」とモーセに向かっていわれた。

ユダヤ人は「ヤハウェ」と口に出せない程、神名を伏せざるを得なかった。

マリヤに向かって御使いは「その名をイエス(ヘブル名はヨシュア)とつけなさい。」と伝えたときから、人間は人となられた神を「イエス」と呼んできた。

 

イエスが捕えられる前夜、彼の祈りの言葉がヨハネ福音書に記された。

「わたしは、あなたが世からと取りだしてわたしに下さった人々(イエスを信じた人々)にあなた(神)の御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼等をわたしに下さいました。

わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。

あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に彼等を保ってください。

それは私達(父と御子)と同様に、彼らが一つとなるためです。」

 

人の道理と知識で理解出来ない言葉であり、御霊の力と神の真理を信じて読まないと難解な表現である。

しかし、キリストが求めておられることは、実によく理解できるし、これが主の迫り来る愛なのだ。

地上の体で生きながら、御霊の主と一つに成れるなど、私などとても考えられなかった。

人間の道理と価値観がすべてを遮っていたからだろう。

私自身、信仰は進化するべき、と言って来た。

当然である。

クリスチャンに成りたての頃の自分の信仰と、40年後の今の信仰は甚だしく異なる。

その変化は実に自然であり、理に適っているのだ。

変わらぬことは唯一つ、「神は私を救うために、イエスをこの世に遣わし、十字架に架けて、私の罪の代価となられた。」ことだけ。

神の真理は永遠に変わらない。

人間はこの世に生まれた為、この世の色と道理に染まっていたのが、時間は大分掛ったけれども、ゆっくりとキリストのカラーに成って行くのだ。

それは『わたしが道であり、いのちであり、真理である。誰でも、わたしを通してでなければ父のところへ行くことは出来ない。』といわれた方によって、である。

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