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■夢解きびと/ダニエル書4:19~28

思い出すのは39年前。

初めて教会学校の先生に任命された。

「先生!」と初めて呼ばれた記念すべき日でもあったが、実際の耳にはくすぐったくて仕方なかった。

クリスチャンになって一年程度、教師経験ゼロ、頭で想像するだけの教師って、ありなの?

教会付属の幼稚園を持っているので、日曜朝の幼稚園に子どもはウジャウジャいた。

小3と小4、元気活発な子供達30人近くが私の担当区域。

四月の第一日曜日、テキストは「ヤオロズの神」に関するものだった。

その朝、自分のクリスチャン人生の使命が迫った。

「日本の八百万(やおろず)の神々と偶像に囲まれた子供たちの魂をイエスの元へ」だった。

各言う私の育った環境こそ、八百万の神々の巣の中だった。

小学生を相手に34歳は喧嘩しながらも、聖書を教え、黒板に絵文字を書きながらの奮闘努力の日曜日だった。

たまには課外授業もいいだろう、という調子で自宅に子供達を招いて、菓子や食事でもてなした。

イエスさまは「わたしのところへ子供を連れて来なさい。」(マルコ10:14)と仰った。

子供の魂だって滅びゆくのだ。

漠然と朝の時間を過ごすのではなく、イエスが誰かを教え、救いの必要を教える。

よくよく考えて見ると、今の私はあの頃の私でもある。

殆ど変っていないと思う。

メッセイジと言えば、「信仰とその周辺」であって、社会、政治、世界、平和、殆ど扱わないぶきっちょな牧師。

「こんな牧師でよいのだろうか?」と自問自答の日々。

時として思う、「毎週、毎週飽きずに聞いてくれる教会は有り難い」のか、皆さん諦めているのか、神に与えられた牧師を受け入れるべく信仰に立っているのか、よく分からないけど・・・「ま、いっか」の独り納得の日々。

それにしても、塩分取り過ぎ牧師の塩分過多のメッセイジをよく聞いてくれるなぁ、と思う。

若しかして私は自分で自分に語り、自らを叱咤激励し、自分に言い聞かせているメッセンジャーゆえかも知れない。

私の到達観。

人間は生かされているに過ぎない。

そして生かして下さっている方(聖書の神)がおられる。

人はその方(聖書の神)に帰ること以上の大事で重要なことは無い!

人生はそのためにある!

乗りだしたら向こう岸に着くまで決して舟から降りない。

降りたら降りっぱなしになってしまう自分を知っているからか。

やるのかやらんのか、決めるのはイエスの前で!

個人的理論なのか、感情論かよく分からないけどGOあるのみ。

自分はGOでもイエスさまが待て!という時はそれなりに納得して止まる。

実に楽しいクリスチャン人生であると思う。

時として内なる方の呼吸が聞こえて来る時さえありそうだ、かなり焦るけど。

思えば、生きる私と生ける主キリストの二人旅みたいな人生だったな、今日までは・・

ダニエルという人は、生きてヤハウェに仕える様な信仰と精神を忘れず、異邦人の国バビロン帝国の中枢にまで駆け上がった器だった。

捕虜の身でありながらもヤハウェから離れたことは、彼の人生で寸分も無かった人。

旧約、ユダの人々にとって最も苦しい時代に、青春を粉にして捕囚の中に身を投げ込んだ人。

その知恵と幻を解く力はヤハウェからの直接的賜物。

それを見逃さなかったカルデヤ人の見識と判断力もすごかったと思う。

バビロン帝国はユダの国にやってきて、めったやたらに捕虜をしょっ引いたわけでは無かった。

その人間の将来性、学識、知恵、政治、すべて自国のためになる器を見分けて連れて行った。

その国の最高権力者、国対国では地も涙も見せない政治家、ネブカデネザルの見た夢。

それは夢を見た王も、夢解きを仰せつかった側も思わずたじろいでしまう程の恐ろしい予告だった。

夢の解き明かしを求められたダニエルは王に向かって言った。

「王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者を哀れんで、あなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」

全ての権力と地位、最大限の栄誉と栄光を手にしたネブカデネザルに向かって真正面から言うことが出来たのは、ダニエルの信仰と、内なるいと高き神の御霊の力だった。

幾ら残忍無比であろうと、自分の目を正面から見据えて王を案ずるダニエルの顔に王は真実を見た。

ヤハウェはこのダニエルを動かし、神がダニエルを通して王に伝えているとネブカデネザルは微塵も疑わなかったのである。

私達キリスト者こそ、キリストの御霊を内受した器である。

当然、欠けもヒビもある土の器であるにせよ、否その様な者だからこそ、内なる方が異彩を放ち、威光を放ち、輝かれるのである。

そんな土の器を神は必要とされている。

私達の栄光ではない。

キリストの栄光が外に放たれるのであれば、それが最高、ベストである。

すべての人間は、基本的に我が身の栄光を求めるものだ。

どんなに謙遜ぶっても、捨てきれない悍ましさが腹の底にあるものだ。

しかし、汚れと罪と咎を神の御子イエスの血潮で洗われた者であればこそ、栄光はすべて神のものである。

父なる神が息子に託した使命は、地上のおぞましき罪に生きる人間達の為に、己を捨て、裸にされ、鞭打たれ、釘で手足を十字架に打ちつけられ、槍で腹を貫かれ殺されることだった。

であるのに、神の御子は苦しみの頂点、天の父との断絶の瞬間に叫ばねばならなかった。

「父よ、彼らを赦し給え。彼等はそのしていることを知らざればなり!」

私達はそのことにおいて、イエスを信じ受け入れることにより、救われたのである。

イエスが叫ばれた「彼等」こそ、私であり人類ひとりひとりなのである。

神を失う者は 自己の生命を損なう。

すべて神を憎む者は 死を愛するなり。

神を得る者は 生命を得、

神より恩寵(めぐみ)を得ればなり(箴言8章)

幼き者となろう、イエスは子供を愛された。

子供の様に己を低くする大人達、子供のように純な心になって。

神の国はそのような者たちの場所である、とイエスはいわれた。

ダニエル

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