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■?も悪くはない/創世記22:1~12

至極当前のことではあるが、人間は神を知り尽くす(見極める)ことなど皆無である。

但し、キリスト教が伝える神は、人間の魂を救済するために、ご自身がひとのかたちをとってこの世に降りて下さった(クリスマス)ことで、信徒としては神を知ることにかけて大きな助けとなった。

そして日々聖書を読み、礼拝に出て同信の友と知識を高め合って行くと、何となくというか、神を身近に知ったという思いは増し加わる。

だが、単に聖書の中で知り得た知識を並べることだけを主が求めておられるとも思わない。

そして、イエスの言葉が響いてくる。

「子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決して其処に入ることは出来ません。」マルコ10:15節

子供の様に・・・小さく弱く、未熟で低い者となれ・・・。

僅かなことで高慢になり、外向きは謙遜の様でも内側は尊大な者では、パリサイびとそのものである。

考えれば、クリスチャンほど身丈半分の心を求められている存在は他に無いかも知れない。

それは唯一、まことの生ける神に直接的に関わっているからだ。

主ご自身が、すべての栄光と誉と御座を捨て、この世という人間の罪渦巻く世界に来られ、人間に対して徹底的に仕えられた方がイエス・キリストである。

そのことをいつも心と体で意識しているとすれば、決して高ぶった心にはならないだろう。

であるのに、どうしてか全くその逆の思いがつきまとい、支配される悩みに迷うのは、私だけではないと思う

「どうして人間とはこういう者なのだろう?」と地べたを見る。・

「私は本当に惨めな者です。だれがこの罪の身体から私を救い出してくれるのでしょう。」と使徒パウロは拳で胸を打って嘆いている。

しかし、その直後に彼は言う、「「主イエスキリストのゆえに、ただ、神に感謝します。」と、彼は顔を天に向けた。

そう、クリスチャンには見上げるべき天の神がおられるのだ。

つまり主なる神の前に生きたいと思うなら、身を低くして「何も分からない者です。主よ、あなたをひたすら信じて生きるだけの者にしてください。」と祈ろう。

激しい試練の中で、健康も家族も財産も失い、以前と比べて見る影もない程に弱ったヨブを慰問した友人たちとの神学論は何だったのか。

友人達はヨブの生きざまに隠れた罪を追い、ヨブは自らの正当性を盾にして反逆する。

延々と幾日も続いた友人達とヨブのやりとりの後、主があらしの中からヨブに問われた。

「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者は誰か。」

主のアガペーと哀れみと怒りが交わるメッセージが続く。

主なる神、唯一生ける神、主を信じるとは各も幸せな人々であることを思わされる場面。

神が介入された後、ヨブが主に向かって思わず吐露した言葉。

「ああ、あなたにはすべてが出来ること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」

ヨブは「私は神を知っている」と信じ込んでいた。

神の前にあって自分は間違っていない、正しく生きて来たと信じて疑わなかった。

彼は自分と家族が生きた道筋に、ひとつの罪の塵さえ逃さず、拾い集め、清めて来たと自負した。

「私は自分と子供たちの言葉と心と行動までも懸念して、自分と彼らのすべての罪を嫌悪し、それらを追いかけて罪の洗い清めに奔走してきた人生だったのに、神よ、何がいけなかったのですか。もし、それでも駄目だと仰せられるなら、果たして私はこの世に生まれるべきではなかったのです。おお、神よ、私はその日を恨みます。」

だが、まるでヨブの切々たる思いの行く手は、神の高く厚い壁に跳ね返されたか様に私には思えた。

私達は誰ひとり、とてもヨブの足元にも及ばない者であろう。

だが、ヨブの間違いは人間すべての間違いでもある。

そして彼は、すべての人間を代表して罪の洗い清めをしたのである。

だが、私達はその人生の罪をどのように清められるのか。

私という存在が、間違いなく罪の存在でもあるからだ。

人間は誰ひとり、己の罪を拭き清めることなど不可能である。

ただ主なる神だけが、それをお出来になるのだ。

主は、私達の独り歩きを望まれてはいない。

人間は熱心になると、やがて闇雲にその道を突っ走る。

そして、人はそれを自らの宗教(生きる目的)にしている。

恐ろしきは「神でないものを神にしてしまう人間の本能」である。

人はもっともっと、キリストと言う主に依存するがいい。

彼だけが正しい道を知っておられるし、彼ご自身が「その道」だから。

主イエスさま、私は貴方と生きる以外、生きるべき道がみつかりません。」

まるで、幼子がその父と母を求めるように。

ひとそれぞれには必ず故郷がある。

但し私が言う故郷とは、まことの神(キリスト)に出会った我が身、我が人生の出生地である。

1978年3月12日、創世記22章のイサク奉献の聖書箇所で私は生まれた。

その日、朝の礼拝時間、生まれて初めて自分の目と心で読んだ聖書によって、主は私の魂を捉えられた。

こんな体験を生涯に渡って、常に思い出すことが出来る者など、決して多くはないだろう。

つくづく幸せ者だと思う。

神を、イエスを、救いを求めるどころか、嫌って拒んで逃げ回っていた者なのに・・・ 長い年月の中で、あれは私の自問自答だと思っていたが・・・、今は違う。

あれは、主イエス・キリストが創世記22章という場所で、私を待っていて下さったのだ。

私が探し出した救いではなく、キリストが私の行く手をふさいで下さり、「汝、救われよ!」と言って下さったのだと思う。

『人生が、信仰が、神が分からなくなったら、初めに生まれた故郷へ帰る。』

これが私の故郷観。

時として、神も信仰も分からなくなることはある。

だが、分からないことは私にとって多いに意味がある。

分からなくなったときこそ、辞書も注解書も目にしない。

私の経験も知識も思いでも、すべてに蓋をして主に目を注ぐ。

人の努力も熱心も地において、ただ主を信じるに徹するタイミングだと思う。

信仰は神からの賜物、今日生きている命も環境も恵みも神からの賜物、私が私を守る、私の信仰を守る、私が信仰に生きることなど、自分の力でこれっぽっちも出来ない。

何よりも、私が信仰を失わないように祈っておられる方こそ、イエスさまではないか。

イエスの前においては、何ひとつ出来ない、ただの木偶の坊でよいではないか。

指を咥えて、ポカンとしてイエスを見上げているだけの幼児でよいではないか。

そうとでも思わないと、いつの間にかイエスを追い越し、他者を蔑み、自分を聖とし、すべてにおいて自分勝手に生きてしまう者だから。

そうでなければ、その先に何がある?

単なる自己中心という悩みの泥沼でしかない。

分からないことは天国だ。

イエスという方、イエスがして下さったこと、今イエスと共に生きていられること、いつかイエスと顔と顔を合わせられること、これだけでいい。

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