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■神のテリトリー(領域)/創世記24:1~15

アブラハムがひとり息子イサクの嫁さがしに腐心していた頃。

彼等が住んで居たカナンの地にも、アブラハムという族長の跡取り息子イサクに娘を嫁がせたい親は十分いた筈である。

だが、五穀豊穣の男神、女神を祭りあげているカナン人の地には、イサクに相応しい嫁候補は求めなかったし、宗教モラルに関するアブラハムの心の隙間は1ミリ程も無かった。

それはヤハウェなる神、唯一まことの生ける神を家長として信仰して行くことが、彼の唯一の目当てだったから。

家長の神がヤハウェであるなら、妻も子供達も父と同様に主に仕えたのである。

アブラハムが自分の弟ナホルを思い浮かべたとき、可能性としてパダン・ハラムに住んでいる孫娘を想像した。

アブラハムが念には念を入れて約束を誓わせた相手は、長年仕える最長老であり信頼出来る男、アブラハムと思いが一つになれる忠実な「しもべ」だった。

ここにアブラハムが「しもべ」に誓わせた言葉がある。

一つ目、ナホルの住む町に行き、親族の中からイサクの嫁を見つけること。

二つ目、決してイサクを彼の地へ連れて行かないこと。

三つ目、その娘が「しもべ」について来ない時、その時点で誓いは解かれること。

文字通り、「アブラハムの人生」とは、神が彼に約束され、その「約束の成就の過程」が綴られたものであった。

今、人生の集大成は「イサクの嫁」を見届けることであり、それこそが最終章へと向かうことだった。

それは凡そ25年前、ペルシャ湾に注ぎ込む河口から流れに沿って上り、ユーフラテスをはるかに上流へ、そしてパダン・アラムから左へ急降下し、カナンを目指したアブラハムと家族の旅は、主と主の約束を信じ、従うゆえの旅だった。

以来、主は陰に日向に彼らを危険から守られたが、約束は居住する土地以上に重要な跡取り息子イサクの誕生だった。

つまりイサクは「神がアブラハムに誓った契約のしるし」である。

神は必ず約束を守られる方、主は間違いなくアブラハムが命を賭けて信じ従う方であったと同時に、アブラハムが神の領域、テリトリーに属する者となった証拠であった。

私達は21世紀に生きているキリスト者であり、同時に神のテリトリー(領域)である。

確かに信仰に入った当時は、まったくもってテリトリーらしからぬ人間だった。

凡そ、殆どのクリスチャンは同様であり、ティーンエイジの如く、常に反発し反抗した。

だが、信仰の人生において教会を通し、信仰の友と家族を通し、何よりもイエス・キリストの諦めないアガペー(愛)によって、固い心と人間性は解きほぐされた。

様々な体験とイエスの臨在はアメイジング・グレイスな旅だった。

イエスなくして為し得ない、有り得ない旅だったのである。

そして、今思えることは、私達はイエスによって養われ育てられ、無意識の内に神のテリトリーに属しているのである。

こういう表現をあなたがどう思われるかは分からない。

そしてクリスチャンである、あなたは如何であろう?

勿論、熟練したクリスチャンではないかも知れない。

今、成長過程にあるかも知れない。

だが、間違いなく、あなたも神のテリトリーにある。

何よりも、あなたがイエスを信じたクリスチャンであるならばである。

ヤハウェのテリトリーは世の初め、吹けば消えそうな灯火程度だった。

同時に人間世界も生まれたばかりのものだった。

数えられる程の僅かな人だけが神を信じていたが、彼らは実に真直ぐな信仰者だった。

創世記はその歴史を語っている。

エノクを育て、ノアに語り、セムを選んだ系図の先に、主が一目おいた一つの土の器があった。

その器は気ままな人間達が考え出した偶像に目を毒されず、ひたすら御霊なる神だけを見上げることが出来る器だった。

その器の内側にヤハウェは『一つの印』を刻みこまれた。

器の心には、『土地、子孫、ヤハウェを信じ続ける信仰』という印だった。

それがアブラム。

そのかわり彼がどこに生きようが、何が起ころうが、主は鉄壁の守りの翼でアブラムを守られた。

唯一、主が彼の自由性に委ねたことがある。

それが、アブラムの内なる信仰の自由性であった。

つまり、神が息子を与えられることを、彼が信じてどこまでも待ち続ける忍耐。

耐えきれなくなったときに、アブラムがどうするかを主が見守るだけにされた。

ヤハウェを信じ、約束を待ち続けることだけが忍耐との戦いだった。

それこそ、人間にとって希望の明かりが消え、絶望が訪れたようなものだった。

だが、人間にとって希望が限界を超えたその先にこそ、神が出番を用意されていることを人間界は中々悟らない。

アブラムの妻サライは、それが待てず、神の前に取り返しがつかない汚点を残した。

それでも神は彼女と夫を受け入れ、生まれた子供さえも祝福というテリトリーに加えられた。

アブラハムの「しもべ」は主人に言われた地、アラムへ足を踏み入れた。

夕闇が迫る時刻、ラクダが水を求めて集まって来た。

見知らぬ地で「しもべ」は顔を天に向けて言った。

「祈った」ではなく、「言った」と聖書は記した。

それこそが、「しもべ」が信じた「アブラハムの神」に対する密着度の深い思いだったのだろうか。

『私の主人、アブラハムの神、主よ。どうか私のために取り計らってください。

私の主人、アブラハムに恵みを施してください。

町の人々の娘たちが水を汲みに出て参りましょう。

私が娘のひとりに水がめを傾けて、どうか水を飲ませて下さいと言って、その娘が「どうぞお飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう。」と言ったなら、その娘こそ、あなたがイサクのために定められた娘です。』

創世記24章15節

『こうして彼が言い終わらない内に、見よ、リベカが水がめを肩に乗せて出てきた。』

人間世界がよちよち歩きを始めた時代、人間は既に間違いなく罪を犯し続ける存在だった。

だがヤハウェに対する、その信仰は非文明的な時代だからこそか、素朴そのものだった。

土の器たちはあの時代、実に輝いていた。

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