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■摂理と罠/使徒の働き27:20~32

私は1980年初頭、アメリカのロードアイランド州にある家内の親戚の家を訪問した。

その州都はprovidence(プロヴィデンス)。

全くアメリカらしくない町、家、人々と思っていたが会話は米語だった。

「此処はまるでイタリアみたい・・・家の間取りはこじんまり、壁紙はヨーロッパ、家族同士の交流はマフィアっぽい。」

そのせいか、思い出はずっと新鮮・・・

それから幾年もして、聖書の「摂理」という言葉の英語が同様のプロヴィデンスであることを知った。

そこで自分勝手に想像した。

遠い昔、大西洋を渡って来た移民達が艱難辛苦を経たのち、彼らの町を建てあげ、さて町の名は?と考えたとき、「この町こそ、私達の神の摂理よって与えられたもの。」と言ったか、言わなかったか分からないが、私の中で勝手なストーリーが本物らしく作り上げられていた。

 

だが、思いは遠からず当たっていた。

『1636年1月、マサチューセッツ州の聖公会とインディアン部族から追放されたキリスト者であるロジャー・ウィリアムズと仲間の数名は、別の二つのインディアン部族から新たな土地を購入して彼らの集落を作った。

ウィリアムズは此処を「バプテスト開拓者のための宗教的自由」の地と宣言し、「逆境に置かれた私に、神の慈悲深い摂理を感じさせる」と言って、プロヴィデンス(神の摂理)と命名した。』

ロードアイランド州はアメリカで50番目の大きさを持つ。

つまり、アメリカで最も小さい州である。

確かに彼等の艱難辛苦には意味があった。

あの苦しみは、今となれば理解が出来る。

だが、当初は理解出来なかった。

だから、あの苦しみは神の摂理(神の予言と配慮)と思うしかない。

クリスチャンであればこその命名だった。

 

箴言8:14

摂理と優れた知性とはわたしのもの。

わたしは分別であって、わたしには力がある。

 

ヨブ記38:1~2

主は嵐の中からヨブに答えて仰せられた。

知識もなく、言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

 

「摂理」とは私達の神、イエス・キリストのご人格であり、神ご自身を人間界に示し給うためのわざであると思う。

私の想像で摂理とは、「聖書から派生した真理が言葉になった」ものだと思う。

聖書の神は人間世界に対し、未来に起こされる「わざ」を敢えて隠しておくが、御計画の一部分を前もって示され、人に何かを思わせ知らしめること」なのであろうか。

クリスチャン人生に訪れる悲劇、苦しみの理由、意味不明なものは山とある。

私達はその苦しみの意味を、今、知りたいと願う。

それは「主なるまことの神、生けるキリストを信ずればこその渇望」であるから。

 

イエスは十字架に架けられる前夜、愛する弟子達と共に最後の食事を取られた。

そのとき、イエスはたらいに水を満たし、弟子達ひとりひとりの足を洗われ、手拭いで拭われた。

ペテロは不審に思ってそれを拒んだ。

「主よ、あなたがそれをして下さるのですか?」

イエスは彼に言われた。「わたしがしていることは、今はあなた方には解らないが、やがてのち分かるようになる。」

 

十字架で苦しみ死ぬイエスのこと、三日目の復活のこと、暗黒の後に訪れる勝利と光、やがて弟子達が整えられ、教会となって行くその時に、彼らはイエスの為されたことを理解するであろう。

そのとき、彼等は互いの足を洗い合い、赦し合い、イエスの真意と愛を改めて理解する。

神の御子のイエスが罪びとの足を洗われたのだから、弟子達も互いにそれをするように。

神の愛を最大限に表現された出来事の一つだった。

 

ヨハネ13章でイエスが示されたことは「神の摂理」であると思う。

それは単にセレモニーに終わらすものではなく、キリスト者が誠意と真実と行動と信仰をもって互いの足を洗い合うべきであると示された。

 

イエスが無抵抗な赤子になって、この世に降臨した意味は何?

なぜ栄光の主が、天の位を捨ててまでして、貧しい大工の家に生まれたのか?

たった三年間の公生涯とは余りにもみじかい時間だったのでは?

なぜイエスは無抵抗で役人に身を任せられたのか?

どうして天から万軍の戦士を呼ばずに、むごたらしく死んでしまわれたのか?

 

と、私達はとやかく言うが、神が決められ、定められた計画と実行は万全だった。

神には塵粒ほどの誤りも狂いも無い完璧なものだった。

人類に隠されていたすべての謎は、未来における完成の到来までを摂理の幕で覆い、イエスは三年間にすべてを仕込まれた。

30年間に及ぶガリラヤでの生活は、「やがて機が熟す」のを、人としての時間で待っておられた神の忍耐のときだった。

その次の3年間こそ、人類の歴史と救霊、救済という神の大仕事が訪れる為の摂理だった。

今も尚、神の救済事業は継続中にある。

この世の終わりが来るまで、それは続く。

二千年間、人間という華奢でか弱い土の器達を、忍耐と導きを通して動かし続け、世界中に福音を蒔き続けられたキリストのみわざを、私達はどの様な言葉にして評価するだろう。

聖書と教会、いずれも主にあって不可欠な要素と媒体であり、同時に人間の目に見えることを第一目的とされたのは実に神ご自身の知恵だった。

 

「行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって私の信仰をあなたに見せてあげます。」ヤコブの手紙2章18節

 

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