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■あなたに命を与えた方/ヨハネ6:34~52

常識外であると思いつつも、言いたい放題を前提に個人的に思った事。

それは「キリスト教と呼ばれる道」此処ほどにシンプルで、分かり易いものはないと思う。

だからこそ、逆に迷う人が多いのかも知れない。

シンプルは嫌われ、こむずかしいのが好まれる人間世界。

そして、つくづく思う事に日本人は他国の人に比べて特に真面目な国民。

真面目な民は修練を積み、学びを深め、ステージを高めて行くことで満足感に酔う。

頑張れば頑張っただけ他の人から称賛され、達成感に満たされる。

だが、キリスト教とはそういう道ではない。

人間が頑張ってはいけないのである。

当然、人一倍熱心に取り組むと道を誤る。

「熱心」とは神、つまりヤハウェ、と呼ばれたイエスの父が提供して下さった賜物であるからだ。

その熱心とは誰のために、何のために?

それこそ人類の救済、人の霊と魂の救いのためである。

先ず、キリスト者は何よりも「神にゆだねることを知るべし」である。

人間はゆだねることより自分で行動、活動した方が楽なのである。

私なども当然ながら、その口である。

「ゆだねる」とは、なんとじれったいことだろう。

絶対、自分で動いた方が楽なのだ。

だが、キリスト信仰とは自分が動くのではなく、イエスにお任せすることだ。

何よりも、人間がイエスさまより前に進んで何が出来るだろう?

まさか、イエスさまを後ろに従わせるわけではあるまい。

福音書を読むと理解できるが、弟子達はいつだってイエスの後をついている。

主はただ一言、「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、そしてわたしに従って来なさい。」と、いわれた。

そう、イエスの後からついて行く。

そうすればキリスト教が理解できるのだ。

たまに弟子を先に遣わした数少ない場面がある。

道端に繋がれていた誰の所有か分からないロバを連れて来るようにと言われた(マタイ21:2)し、更には最後の晩餐のための部屋をオーダーするように(ルカ22:8)遣わされた。

弟子達はその度ごとに、イエスの言葉を信じて出掛けている。

それ以外の場面で弟子がイエスより先だって行動してはいない。

イエスの後ろから行くなら、神意を伺うことが出来るかも知れないが、自分がイエスの先を行ったら、何処へ行けば良いのか何をすればよいのかもわからない。

もう一つ、信仰に入って感じたことは「真面目と品行方正を着た様な人」が多いと思った。

あくまで個人的に感じたことだ。

実際は、真面目で品行方正が良いのであるが、かなり生きづらい場所だった。

自分の内は自分で分かっているのだから、それを抑え続けることにエネルギーが必要だった。

罪からの解放・・・、イエスに自由にされた筈なのに苦しい。

だが、決してイエスが悪いのではない。

自分が情けないのである。

周りにいる出来上がったクリスチャン達が素晴らし過ぎる雰囲気、そんな空気が問題だったのか。

わからない・・・

不真面目なら、「私は不真面目な者です」と堂々と言えたら良かったのだが、言える雰囲気でも無かった。

ついつい真面目を演技してしまう。

何と言うか、そういう自分に罪を感じてしまう。

そうあるべきとか、そうであってはならない、といった張りつめた空気が満ちていたのかも知れない。

『駄目なら駄目でいいから、何はともあれ、イエスの所に行こう!』とでも言われたら、どんなに楽だっただろう。

いっそのこと、この駄目さに罪を覚えたかった。

持ち出しついでに、もう一つ。

クリスチャンの大きな特典!

文句があるならイエスさまに言おうじゃないか。

(それはとんでもないことです!)と思われるかも知れないが、私は敢えてそう言いたい。

何故か。

イエスは神だから、私の腹黒さも悍ましさもすべてお見通しであられる。

そんな自分が口先だけ清い筈もない。

胸に溜まった不満はイエスさまに言うがよい。

誰かの陰口もイエスさまに言うがよい。

その代わり、ひそひそ話や噂話は決して人間同士で言わないこと。

私達の主は、天地をおいて偉大なる方であり、忍耐にも寛容にも富んでおられる方。

ちっぽけで小賢しい人間の不平不満や愚痴など、お茶の子さいさいで片づけて下さる。

自己流の自分勝手であるが、私はそう思っている。

但し、仮にそう思えないなら、すべきではないだろう。

信仰によらなければ罪である(ロマ14:23)からだ。

キリストはそういう方、と認めざるを得なかったのが私の人生である。

不真面目でチンピラで、どこにも収まらない、こんな者なのにイエスは拾い上げ、罪無き血潮で洗い流して下さった。

だからこそ、イエスに惚れぬいて、クリスチャン人生を生きて行きたいと思う。

イエスはご自身のいのちも、御身体も地位も栄光も、すべてをかなぐり捨て、私達の為に十字架で死んでよみがえられた救い主だ。

世界のどこを見渡して、人類の歴史をひっくり返しても、そんな方はイエス以外にはおられない。

いつまで経っても成人式が迎えられないチンピラ牧師の達観を書いてみた。

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