■宝は土の器の中に/Ⅱコリント4:1~7
人間、誰しもが通らねばならない道に二つの大きな門がある。
一つ目の門はこの世に自分が生まれたということ。
生まれる時、自分自身はそのこと事態を自覚しなかったし、特別な努力をしたわけでもない。
生まれ出る状況を覚えている人などいない。
幼児期を超えて数年後に、生きている自分を認識した。
(私は小二の頃、よく世話してくれた祖母の死によって、生を考えた。)
敢えていうなら、それまでは生きたいと思う、人間の本能だけが力となって生きていたに過ぎなかった。
二つ目の門は死である。
人は生まれて数年後、はるか彼方に眺めた死を、以来ずっと気持ちのどこかで見続けている。
それは、実におぼろげなイメージから、やがてくっきりと現実の中で見極めざるを得ないものとなる。
人は死という対象を否定できないし、逃れることも出来ない。
生と死は生きるものとって、実に自然の現象である。
生まれるから死が来る。
生まれたくて生まれたわけでなく、死にたくなくても逃げきれない。
宿命でもある。
上記、二つのものはすべての人間が必ず通る門であるが、神を信じるという点において一つ考えさせられた。
確かにキリスト教に於いて、神を信じるか否かは個人の自由 な選択でしかない。
但し、聖書は実に不思議な力を持っている。
例えば旧約聖書の世界から私達は多くを学ぶ。
人間の本質、本能、生き様、対応、まるで自分の魂が聖書の中の人物であるかのように学ばされる。
こういう読み方が出来てしまうのが聖書である。
時間と空間を超え、まるで異次元のような世界に生きていた人物像と、21世紀に生きている自分との比較に何等の違和感も覚えない。
それどころか、イメージは限りなく自由に駆け回っている。
それは彼等が信じた「彼等の神」と、「私が信じた神」が同じ方、しかも「生きる神」である方を「共有する」ことがもたらすのであろう。
2千年、3千年、果ては4千年という時空を超え、言葉も文化も文明も超えて共有できる世界が信仰の世界なのだ。
イエスの言葉から、そんなことを空想させる感覚をいただいた。
『わたしは父のもとで見たことを話しています。』とイエスはユダヤ人に語られた。
「父のもとで見た。」
2千年前、ベツレヘムというエルサレムに近い田舎で聖霊により、処女マリヤから生まれた赤ん坊が30歳を過ぎた日、突然公生涯に入り、そう語っておられる。
クリスチャンであれば理解出来るイエスの言葉であろうが、ユダヤ人には到底理解出来なかった。
ここに信仰の不思議が有る。
私自身「信仰」という言葉に、独特な見方を持っている。
「信仰」とは、私にとって「イエスを信じた」ということ以外の何ものでもない。
実際、すべてのすべてが此処に起因している。
決して、難しい理論など要らない。
簡単明瞭な繋がりである。
「イエスを信じた」ので、すべてが変わった。
「イエスを信じた」ので、永遠のいのちが分かり、永遠の滅びが分かった。
人間が決して勝てない罪も死も、彼によって無力となった。
ヤハウェという御名を恐れ拝するユダヤ人が信じなかったことはただ一つ、「イエスを信じなかった」ことであり、それゆえ彼等は神の壮大なご計画も恵みも、祝福さえも逸してしまった。
人にとって「何が難しい」か、と言うなら「イエスを信じること」である。
信じることが難しければ、敢えて言い換えて「イエスを心と人生にお迎えしよう。」である。
「受け入れます。」でもよいし、「認めます。」でもよい。
天の父なる神は、難しい信仰解釈を求めてはおられない。
イエス御自身は『幼子のような心と理解で由!』と仰せられた。
ユダヤ人がイエスに言った。
「我々の父はアブラハムだ。」
イエスがいわれた。
「あなた方の父がアブラハムなら、アブラハムのわざを行いなさい。ところが今、あなた方は神から聞いた真理を話しているこのわたしを殺そうとしている。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。」
両者のやりとりを読んでいると、どう贔屓目にみても、ユダヤ人の分が悪い。
イエスの言葉には筋が通っている。
彼等は頭で信仰を理解出来ると思っていた。
現代も同様だ。
多くの人が頭でキリストを理解しようとしている。
確かに頭は知識の宝庫、キャリヤと記憶満載、良し悪しを比較し分析もしている。
だが、頭は霊なる神を考える場所では無い。
御霊なる神と世のことを同じ計りにかけて、見えない真理を見分けられるだろうか。
心は頭ではない。
心は胸である。
だが、胸を切り裂いてみても「心」は出て来ない。
心臓は出てきても心は出てこない不思議。
それでも御霊のキリストは、私の左胸という場所に住んで下さっている。
『あなた方は、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなた方がわたしのことばに耳を傾けることが出来ないからです。』ヨハネ8:43
人間の耳は頭の両側についている。
しかし、イエスのことばを聞く時はその耳ではなく、目に見えぬ心の耳で聞くがよい。
「心に耳があるなんて」と思わないで是非そうしていただきたい。