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■アザゼルの山羊/レビ記16:1~22

遠い昔、祭司であったモーセの兄アロンは特別に改まった顔で装束を揃えていた。

今から始まるのは「贖罪の儀式」であるからだ。

「贖罪」とは「ひとが犯した罪を動物の血をもって代価とし、神に捧げる(支払う)。」ことである。

アロンは聖なる亜麻布で作られた長服を着、亜麻布の「ももひき」をはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶる。

祭司はその前に水を浴び、これらを身につける。

彼は罪のための代価の生贄として雄牛を一頭と山羊を二頭用意する。

先ず、彼は自分と家族の罪のための代償として、雄牛を屠る。

祭司であるアロンは二頭の山羊の為にくじを引き、一つのくじは主の為に、一つのくじはアザゼルの為とする。

(アザゼルとは『完全に除去する』という意味の言葉である。)

アロンは先ず、自分と自分の家族の贖罪のために雄牛を屠り、その血を祭壇に向かって指で振り掛ける。

続いてアロンはイスラエル人の贖罪のために一頭の山羊を屠り、同じように指で血を祭壇に振り掛ける。

残りの血はイスラエル人の神への背き、汚れと罪の贖罪の為、祭壇に向かって血を振り掛ける。

つまり人民の罪の代価を血によって支払い、神の怒りに対するなだめと悔い改めを表現したのである。

血をもってしか贖えない人の罪とは・・・

人間が存在する限り、罪はなくならない。

そういう人類を造られた創造主は、御自らの痛みと苦しみを、血を見るたびに彷彿と思い起こされたのだろうか。

創造主は人間の愚かさや弱さを知らなかったのではない。

そうなるであろうことは知っておられたと思う。

だが、神は人間に期待された筈だ。

今、主はクリスチャンたちに対しても大いに期待しておられると考える。

そうであって欲しいとさえ思うが・・・

最後にアロンはアザゼル(除去)の山羊の頭に手を置き、イスラエル人すべての咎と、背きと、いかなる罪であろうとも、これらをすべて山羊の頭の上に告白し、そしてこれを荒野に向けて放つ。

その山羊は人間達のすべての咎を背負って不毛の地へ歩き出した。

アロンと人々は山羊を見送った。

山羊は荒野の彼方に去った。

山羊を待つのは飢えと渇きと、はたまた猛獣の牙だろうか。

イスラエルから罪は除去された・・・と、人々は本当に信じただろうか。

神はそれを期待されたのだと思う。

旧約時代、神が導かれた贖罪の儀式は民に悔いあらためを促したのだろうか。

山羊に罪はない。

動物に罪はない。

彼等は神に造られた本能のままに生きている。

人間だけが、身勝手で利己的で、自己中心な生き物。

そんな人間の身代わりになって罪なき生き物は死んで行く。

罪無き方が、罪びとの救いのために殺される構図は既に旧約時代に描かれていたのだ。

ヤハウェ(YHWE)は既に計画を持っておられた。

エデンの園から人間を追い出した時に、否、アダムとエバが罪を犯した時からであろう。

否、神が人間を想像された時、既に知っておられたと思う。

人を造る時点で、救い主が必要であることを知っておられたのだ。

やがて未来に来るべきキリストは、世界の民を永遠に罪から救われるアザゼルの羊であることを。

だがそのときのアザゼルは、「除去」だけに止まらず人類を罪から救い、やがて天の御国で彼らと共に生きる永遠のメシヤであることを含んだのである。

イエスこそ永遠に人類の魂と霊の救い主である。

イエスは一度の十字架の贖いをもって、未来永遠にご自分に来る民を罪から救う神の子羊である。

クリスチャンになったとしても、人は幾度も幾度も罪を犯す生き物だ。

だが、イエスの血潮は更にその上を行く価値ある贖罪の代価である。

それは彼こそが、罪なき神の血潮であるからだ。

人間の罪が赦されるためには血の代償が必要である。

罪あるところには必ず動物の血が流された。

血の代価である。

文字通り、血はいのちそのものである。

ヤハウェなる神は絶対に血が流されずして罪を赦されない。

イエスは私達をご自身の血をもって買い取られた。

それ以外に人の救われる道がないからだ。

つまり神はご自身の血をもって、人間を買い取られたのである。

八百万の神々(偶像)を作り、崇める民とは全く異なる罪認識、つまり罪悪観である。

いとも簡単に作られてしまう神々であるからこそ、いとも簡単に拝めるのだろう。

何とも、もの寂しい神モラルの民である。

頭でも心でも理解出来ないところの祟りに対する恐れは祭り上げるしかなかったのだろう。

山も海も、川も石も、天も星も太陽も月も、すべて偶像の対象になった。

ひとの心の迷い、恐れ、良心の呵責が神々を生み出したとさえ言える。

『樋口信平先生がこう書いておられた。』

「多くの人々(これはクリスチャンを指して言われたと思う。)には宗教はあるが信仰はなく、信条はあるが信仰はない。

彼らは、神に対する本物の行動的な信頼はないのである。

信仰は、私達が信仰を行動に移すことに始まる。

小さい信仰でも、本物だったら大きいことをする。

重要なことは、私達がどんなに沢山のことを信じるかではなく、どんなに信仰の対象をしっかり掴むか、ということである。

からし種は生きているから成長する。

生ける信仰は小さくとも伸びる可能性がある。」 まことにアーメンであると思う。

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