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メソポタミヤのキリスト/創世記11:27~12:4

クリスチャンであっても、ついつい使ってしまう言葉がある。

それは「たまたま」とか「偶然」である。

ずっと使い続けた慣れとは恐ろしいほどだ。

しかし、創造主である神を信じ、御霊なる方を信じているのであるなら、「偶然」も「たまたま」も無いと思う。

もし当然の如く、そういう言葉を使っているとしたら、その人は現実世界に対して主を認めていないのである。

ある先生が言っておられた。

『私達は人生のあらゆる出来事の背後に神がおられ、摂理の御手をもって、それらを動かし、ご自身の救いの計画を進めておられることを知る。

人生に、いわゆる偶然は無い。すべてが神の計画の下にあるのだから。』

アーメン!

 

伝道の書が言う。「すべてに時がある。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」

人間は時間の中で生きている。

時間の中で営みを繰り返す。

生まれてから死ぬまで、ひとの一生は時に支配されている。

その人生において悲しみ、喜び、絶望し、涙を流し、笑う、を繰り返す。

その一つ一つはすべて神からの贈り物であると聖書は言う。

嬉しいことも、悲しいことも、そのすべてが神の贈り物である。

人生とは不思議であり、ユニークであり、素晴らしいものだと思う。

幼い時、青年のとき、壮年の時、人生とは愛おしいものと感じた瞬間が決して多くはなかった。

だが高齢になった今、その味わいは実に素晴らしいものだと思う。

 

アブラムは父テラが健在のとき、家族全員でウルを離れ、カナンを目指す旅に出立した。

彼等は古い歴史の町、ウルを捨て、上の海(地中海)の、へりに位置するカナンへと旅だった。

聖書はその動機と経緯を明確に語ってはいない。

しかし、「彼らはカナンの地に行くために出掛けた。」と書いてある(創世記11:31)

では誰が初めに言い出したのだろう?

慣れ親しんだ町を離れたのは家長のテラ、息子のアブラムと嫁のサライ、父を亡くした甥っ子のロト、けして大人数の旅ではなかった。

一族を引き連れる旅とは並々ならぬ動機が有った筈だ。

その長旅の動機を知りたい、と思った。

聖書は言わないが、私はアブラムの心に主(YHWE)が囁かれたと思う。

だから、言い出したのは神であるYHWE(ヤハウェ)だった。

だが、直ぐに決まった旅では無かったと思う。

 

何カ月もかけて親子は話し合ったであろう。

そして遂に家長のテラが折れたのかも知れない。

高齢になって住む環境を変えることは厳しいものがある。

家長のテラは長旅とカナンへの移住に気が向かなかったかも知れない。

だから誰かが言いだしたと狭めて見れば、将来が有る息子のアブラムであろう。

そのアブラムが夢か幻の中で、誰かに語られた、と思う次第である。

わからない、知れない、というジレンマの中で結論を決めたのは、跡取りの「アブラムの聞いた声」が導いたと思うのが自然である。

そして、この長旅には赤子や幼児がいなかったことが、結果的に身軽な出発にさせたと言える。

延々とユーフラテス川に沿って川淵をさかのぼる旅は始まった。

 

順調に来た旅ではあったが、なぜか彼らはメソポタミヤの北に位置する町、カランに着いたところで、その地に住み着いてしまった。

カランから左に折れて下って行けばカナンは左程遠くない。

何故、テラと家族はカランに留まってしまったのか?

カランで何が起こったのか?

カランは古くから通商路に面した位置にあり、目の前を人と物と目的が忙しく行き交っていた。

様々な人間模様と食材、文化と金が交差するところは魅力満載だった。

町は栄え、楽しみも絶え間なくあったであろうし、ハランの人々が仰ぐ月の神{シン}は人々を魅了していたと思われる。

テラは旅の疲れを癒やすべく小休止の積りだったかも知れないが、町の活気と好奇心を掻き立てる空気が、彼の腰を立たせなかったのかも知れない。

テラはその町に住みつくことを決めた。

 

私達の人生も旅になぞられる。

人それぞれは、それぞれの時にイエスに出会い、そして様々な取り組みをしながら信仰の人生(天を目指す旅路)を生きている。

成長のスピードも道筋も異なるが、「この道」にしっかり留まっている限り、成長は自然と加速するだろう。

反面、「その筈だった。」信仰の旅路が、本来の道を逸れて脇道にあるとき、自分はどこに行くべきかを思い出そう。

行くべき道は、主のことばが聞ける道以外に無い、のだから。

だから、人間とは元来自分勝手に生きたい生き物と知るのが良い。

行く先も決めず、ただ世の水の流れに逆らわず、浮かんではいても流れの淵に動けなくなった葉っぱの様であるとしたら、やがて朽ち果てなくなって行く。

水に彷徨う枯れ落ち葉に、創造主の言葉が届くような耳と心があるだろうか。

そういう退廃的な結末をもたらす気持ちにさせる原因など、この世には山とある。

無駄な楽しみ、快楽、誘惑、道草、寄り道、どれ一つとっても信仰を励ますものなど無い。

そして、それらはジワジワと教会、教会学校、礼拝、学び、信仰の交わりが疎かになる。

怠惰な感情で望むとしたら、間違いなく蝕まれて行くことに対し、私達は余りに無防備であるからだ。

「ほうって置くから自由に決めて」、などと言われて真直ぐに生きた人間など先ずいない。

人は誰かに言われ、勧められ、叱咤され凹んだりしながらも、やがて生きるべき道を悟るものだ。

御霊の神が絶えず諦めずに、私達が起きているとき寝ているときに関わらず、言葉と思いを伝えておられることを心のどこかで覚えよう。

救われたばかりの清々しい思い、地道な信仰の旅路の平安が、何となく色褪せたと感じる段階で、サタンは既に「ほくそ笑んでいる」くらいのことは頭の端っこにでも置いとくべきだ。

 

時が流れ、テラはカランで人生を閉じた。

「その後、」と聖書が言う。

遂にアブラムが主の前に起き上がる時が来たのだ。

「主はアブラムに仰せられた。」(創世記12:1)

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」

 

そう、誰にでも生まれ故郷がある。

故郷の景色、水、空気、環境、人間関係で一番初めに意識したのは故郷だった。

父も母も、祖父母も兄弟姉妹と共に、慣れ親しんだ絆と親しみがあった。

懐かしい、という感情は生まれ育った町の景色と人々との絆だった。

そして拝む姿勢は教えこまれずとも、自分で選ばずとも、知らず知らずに手を合わせていた神々とは感傷的な絆でつながっていた。

それが私の故郷・・・

 

『あなたの家』そう、私達には生まれ育った家がある。

祖父母、父母、兄弟姉妹が暮らした。

家族によって生活を通して自然と、馴染まされた家族という群れ。

生き方、考え方、そして価値基準が自然と植えつけられた。

この家独特の空気と道理。

これが私の家・・・

 

主は故意にいわれたのだ。

偶然でも、たまたまでもない。

「あなたは、あなたの願う地でなく、『わたしが示す地』へ行きなさい」と。

生ける神は、神にあって私達が生きる様にと願っておられる。

今までの生き方ではなく、主と共に生きる人生。

父と母から離れ、「主が示す地で、主を仰いで生きる生き方」が自ずと自分を変える。

人間であれば当然ながら、反発もあるだろうし、内心は摩擦も起きるだろう。

だが、主なる神はアブラムと、そして『私達」を、いざなわれたのだ。

だから、人間らしくよりも、善人としてよりも、ひたすら主と生きる者となれ!

そうすれば主キリストが私達を、人間らしい人間へと造りかえてくださるのだから。

自分で自分を再創造するのでなく、キリストの御手にまかせる、委ねることだと思う。

 

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