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イエスが主・Ⅱコリント4:17/使徒15:31~41

創造主である神の御目からすれば、人は土の器でしかない。

つくずくそう思う。

人は土地の塵によって造られ、死んでしまえば灰と塵しか残らない。

葬儀を幾度も仰せつかって来て、最後は常に同じ思いを抱かせられる。

つい数日前まで、生きてこの世に存在していた人が、数十分前まで遺体であった存在が、今は僅かな灰と塵だけになってしまう。

霊と魂も消えてしまったのか。

その時点でその人の魂と霊は天の国、神の国へ行かれたのだという実感が迫る。

そこに遺体があっても、それはその人の存在の証拠でしかないのである。

そんな余りにあっけない存在が人間であればこそ、イエスのして下さった偉大なるみわざが尊い。

 

使徒パウロの言葉。

『私達はこの宝を土の器の中に入れているのです。

それは、この測り知れない力が神のものであって、私達から出たものではないことが明らかにされるためです。』(第二コリント4:7)

 

聖句が言う、宝とは、力とは?

それは私の内に入って下さった「イエス・キリスト」そのお方である。

クリスチャンとは彼によって生かされ、彼によって行動があり、彼を称える心と言葉があり、彼によって歩む人生を言う。

単に「イエスを信じたらクリスチャン」ではない。

彼と生き、彼に死に、そしてまた彼と生きる。永遠に・・・

だからクリスチャンと言う。

クリスチャンとは「キリストのもの」である。

彼のものになることと、爪の先で信じたことは比較にならない。

そこには実がないのである。

難しい論理の様だが実に単純である。

だが、この単純が人間にとってエベレストに登る以上に大変なのである。

なぜ大変かと言うと、自分でエベレストに登ろうとするからだ。

そうではなく、イエスに抱っこされ、おんぶしてもらって登るのである。

この簡単な道理が分かれば、キリスト教ほど大胆で楽しい信仰は無い。

 

40年前である。

私はクリスチャンなりたての頃だったので、正義感バキバキ?だった。

でも当時の環境は思い出したくも無いくらいだ。

その要因は私が信仰的に若過ぎたからか、若しくは環境自体がおかしかったか、である。

私はというと、「俺こそ主のしもべ!」みたいな威勢だけはあった。

周りを見渡すと、どれもこれも一見は大人であり、何というか政治家の様に思えた。

さすがに凹んで主に祈った、「イエスさま、どうしてこの様な環境なのですか。どうかして私が成長出来る様な環境に変えてください。あなたがマタイ16章でいわれたようなキリストの教会に変えてください。」

だが、主はずっと沈黙されていた。

しかし、幾年かして主が私に語られた摂理を忘れない。

『どうだ、わたしはあなたの願う様な環境にはしない。だが、わたしはそういう環境を通してあなたを煉り直す。』

いつ、どのように語られたか覚えていない位、自然な時の流れの中でイエスが私の脳裏か心にそっと置いて行かれたようだった。

 

昔は、牧師にだって時折噛みついたものだ。

私より20歳以上年長で、私より30年以上の信仰のキャリアがあり、錬れた人であり、宣教師であり、牧師であった人にさえ畏れなく噛みついた、何というべきか、まるで狂犬だった。

近寄ると噛みつくというより、慣れると噛みつくのである。

ここが普通のワンコと違うところである。

其の後、弟子訓練を通して、削られ、錬られ、掘り起こして下さった方がイエスだった。

イエスはみことばの剣で私の身を削り、彼の鋤と鍬が私の魂と心を耕し、いのちの種(みことば)を蒔いてくださった。

特にこれといった目標も無く、タラタラと生きていた荒れ地の様な信仰生活にキリストのやさしい光が放たれた。

仮にあのまま行ったとしたら、程なくして「アザゼルのやぎ」になっていたかも知れない。

まったく聖書の言う通り、私と言う土の器の中に入ってくれ方がイエス・キリストである、と確信した。

 

あの頃、私に噛みつかれた羊の様に優しい先生も、私と同じ弟子訓練によって変えられていた。

5年後に見た彼は、間違いなく強い芯のあるキリスト者となっておられた。

先生は講習会へも私を相棒の如くに伴って下さり、牧師でも宣教師でも、ベテランのクリスチャンでも、改めてイエスの弟子を目指すべき道を教えられた。

その頃、先生と私はお互いに「イエスにあって」同労者であり、助け手であり、援助者となったことを確信した。

 

当時、いつも自問自答したテーマ。

あなたは、生涯を通してどんなクリスチャンになる御気持ですか?

あなたはその為に明確な目的や目標をお持ちですか?

あなたが教えている人たちに対し、あなたはどんな期待を持って取り組んでいますか?

その方々に対し、クリスチャンとして最終的な目標を提示出来ますか?

 

イエスは言われた。

『いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。私があなた方に話した言葉は、霊であり、また、いのちです。』(ヨハネ6:63)

イエスという道を教えたい。

それはイエスだけが道であるから。

イエスだけが、いのちそのものであることを教えたい。

それはイエスが救いであるから。

一番の有益を教えたい、無益なことが町中に満ちているのが、この世であるからだ。

有益なることの一番てっぺんがイエス、この方である!

 

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