■Be a professional!/マルコ2:1~12
今回のメッセイジタイトルは25年間の中で最も過激なものだと思った。
『Be a professional!』個人的には、どうせ生きるならプロでやれ!とでも言いたかった。
プロと言っても技能とか腕前によるものではなく、キリストの前に生きる生き方であり、主と共なる人生に於いてのプロである。
別に宣教師だの牧師だのといった教役者になれ、という意味ではない。
今を、この瞬間を生きることにおいてである。
折角この世に命を受け、ましてやイエス・キリストが出会って下さったとすれば、それくらいの思いで聖書と信仰に取り組んでみてくださいよ、である。
たらたらと生きるのでなく、生かしてくれている創造主を意識して、イエスと相撲でも取ってはいかがですか、という思いである。
クリスチャンのプロってなに?と言われそうだが、私とてはっきり知ったわけではない。
但し、幾つかの点なら思い浮かぶ。
例えば、信仰の基軸がぶれない、ええ恰好しぃでもない。
人の目をいっさい気にせず、イエスの前に生きるとか。
イエスをいつも真直ぐ前に見るひと。
自信があるからよりも、イエスが共におられるからと信じるひと。
多分、色々言えたにせよ、結局は「イエスについて行くキリスト者」ということである。
そこで、世の中には「自分なりのキリスト教」をやっている人と、「彼(イエス)について行くキリスト教」が、あると思う。
大きくわければ、すべてのクリスチャンはこの二つの部類に収まると思う。
「自分なりの」とは、礼拝に参加していても、聖書の学びをしていても、一見熱心に見えても結果的には常に自分が最優先になっている場合である。
(私などこの域を抜けられずにいる輩であるが、それでも弟子と言う呼び名にはかなり拘る。)
「自分なりに生きる」とすれば、おそらく葛藤は殆ど起こらない。
なにせ、自分の選択、チョイスで生きているのだから。
それでも敬虔な態度は作れる。
だが、必ず絶望する時が来る。
なぜか?人が先を走って来たからだ。
かなり荒っぽく厳しく区分けしたが、所詮、こうなるのかと思う。
こういう風に区分けした意味は、「これからも、今までの自分で宜しいのですか?」との思いからである。
これは同時に我が身への鞭打ちであり、叱咤でもある。
イエスについてゆく信仰には、何かと葛藤が起こる。
主に従っていない自分というものを、何かにつけて浮かび上がらせる日々の連続だから。
それでも懲りずに彼について行くのは、どうしてもイエスを諦めきれないからだ。
それはイエス以上の存在は、この世にも何処にも見つけられないと知ったからだ。
イエスについて行くキリスト教には、やたらと戦いと敵がある。
その戦いこそ、自分が変えられなければならないことを知る葛藤だ。
しかし!この道だけが神の国に行き着くをことをいつか必ず知るのである。
そこで総じて考えて見れば、結局私達はイエスに躓いている。
問題が誰かでも、出来事でも、結局はイエスに躓いている。
誰が躓くのか?
他ならない私であり、教会のそれぞれである。
何よりも残念なことは、教会も本人も、まさか自分がイエスに躓いているとは考えないことである。
もしかして、そこへもって行く心の度量が無いからだろうか。
キリスト者がキリストに躓いていては、話にならない。
確かに恰好悪いが、事実である。
マルコ2章に、中風で体の麻痺した男性をイエスに見せたくて、よその家の屋根を剥がして吊下ろした四人の男の信仰の話がある。
実に荒っぽいが、その熱意にイエスはビックリしておられた。
「イエスは彼らの信仰を見て」と聖書は言う。
信仰とは見られるものなんだと、こちとらは読んでから感動した。
神にも人にも見られる・・・但し、見せる為では無いことは確かである。
イエスは「子よ、あなたの罪は赦された!」と言われた。
ところで、この話を教会で話すと、「ああ、この病人はまだ救われていない人だから。」と、会衆は思う。
確かにそうではある。
だが、教会こそがイエスの赦しの宣言、解放宣言を聞くときだと思う。
私達教会は罪というものを重々理解している。
理解していながら、なぜ犯すのか。
心の中で、言葉で・・・・罪を犯す。
「私と言う存在が罪なのか」と昔、誰かが呻いた。
先ず、赦されるべきはクリスチャンであると思う。
その場に律法学者の数人がいた。
一人の学者が心の中で屁理屈を言った。
(この人はなぜ、あんなことを言うのだ。神を汚しているのだ。神おひとりのほか、誰が罪を赦すことが出来よう。)
屁理屈の中にも神の真理が語られている。
彼がどれだけ真理に触れていたかはともかく、プロらしくないと言うべきか、プロらしいと思うべきか。
『神おひとりの他、誰にも罪を赦すことは出来ない。』
律法の真理は定義付け出来ても、イエスの本性を見抜けなかった学者はプロではなかった。
イエスは学者の心を「ご自分の霊で見抜いて」こう言われた。
「中風の人に、あなたの罪は赦された、というのと、起きて寝床をたたんで歩け、と言うのとどちらが易しいか。ひとの子が罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」
そして中風の人に言われた、「あなたに言う、起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい。」
すると、彼は立ち上がり、床を取り上げ、皆の見ている前を出て行った。
私達も立ちあがって寝床をたたんで帰る時が既に来ていると思う。
罪赦されて主の前に立つことが出来るではないか。
イエスの言葉を聞いているからだ。
ここで立たずして、いつ立ちあがるのか。
見て、聞いて、触れて知って、まさか寝ているだけの人生ではないだろう。
「田舎牧師の日記」という本にこんな実話がある。
大分昔のことではあるが。
原さんというおばあちゃんが高齢で亡くなった際、教会はひとしきり彼女の思い出話で場が賑わった。
「終戦直後、進駐軍の兵隊が日本各地で色々やってくれた頃。
勝手に電車を止めたりもしたそうだが、ある日のこと、電車の中で日本人の若い娘さんに悪戯をはじめたそうである。
だが、周囲の人たちは見て見ぬ振り・・・誰も何も言えず、しなかった。
するとそれを見ていた一人のおばあさんが人々をかき分け、叫びながら米兵の傍にやってきた。
「アイアム クリスチャン、アイアム クリスチャン。」米兵がおばあさんの顔を見た。
彼女が言った、「アイアム ア クリスチャン、アーユー クリスチャン?」
大声で迫るその声に米兵は恥ずかしそうにしながら消えて行ったという。
後日、教会は彼女のことで話が弾む度、「あの英語は原さんが知っていた、たったひとつの英語だったのではないか。」
で、私は思った。
「このおばあちゃんこそ、プロのクリスチャンだ。」