契約の血/マタイ26:20~39
「荒野の泉」という本から抜粋。
ある黒人男性が当時毎晩行われた天幕伝道集会に参加したところ、主は彼の内に働かれ、
集会に行く度毎に、「今からの人生と私自身を主にお捧げします。」との決意をした。
しかし、集会から帰る頃になると、決まって悪魔がやってきて囁いたそうだ。
「どうせ、お前の決心はいつだってその場限りのものだろうが・・」
男性は毎晩、その声に打ち負かされた。
遂にある晩、彼は杭とハンマーを持って集会に臨んだ。
そして献身の祈りをした直後、その場所にハンマーを打ち上げると、深く杭を打ち込んだ。
帰り道、悪魔はいつものように彼に臨んで言った、「お前は今夜も決心したようだが・・・」
だが、悪魔が語り始めた瞬間、男性は集会場所にとって返して打ち込んだ杭を指さして叫んだ。
「サタンよ!いいか、この杭を見ろ。これこそ、私が永遠に主イエスを受け入れ、従うと誓った証しだ!」
その晩を最後に悪魔は二度と男性を訪れることはなかった。
私たちに一番足りないのは、誰にも見える杭とハンマーかもしれない。
心の決心は時間と共に淡くなって過ぎ去ることがある。
紙に書き記すとか、何か見える物を証拠の印として残すが良いだろう。
私はデボーション用に36年前から大判の聖書を使って来た。
何カ所にも書き込んだ文字はあるが、赤ペンでしっかり残っているのは、主に従う決心をした際の日時だった。
主のことばはいつだって其処に生きていたし、赤い書き込みは変わらない。
やがてそれは、私の心へと場所を変えた。
最後の晩餐の夜、イエスの「御からだと血潮」は「パンと葡萄の水」に象徴され、12名の弟子たちに配られた。
そこには裏切りのユダもいた。
イエスが捕縛された際、結果的に逃げてしまった11人の弟子たちもテーブルにいた。
主イエスがいわれた。
『わたしと一緒に鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。』
弟子たちは互いに顔を見合わせながら、首を振って言い合った。
「誰だろう?誰だろう?俺か、お前か?いいや決して俺ではないぞ。」
するとユダがイエスの顔を覗き込んで聞いた、「先生、まさか私ではないでしょう?」
周囲にいた弟子の誰がユダとイエスのやり取りを聞いたのだろう。
主はユダに言われた、「いや、あなただ。」
私たちとて、ついついイエスを裏切っている者に過ぎない。
情けない話だが、事実そうである。
殆どのクリスチャン、否100パーセントのクリスチャンが主を裏切った結果と過去を否定できない。
但し、「裏切り」という言葉を辞書はこう解説している。
『味方でありながら密かに敵と内通していること』
それでも私たちは幾度も幾度も、イエスに対し背信して来たこと自体、違いはない。
残念ながら、無念ながら・・と後悔しつつ、それでも明日に希望を持てるのは主イエスだからである。
信仰生活とは、よく考えると毎日が後悔と悔い改めの連続の様だ。
時として、つい出てしまう言葉、「イエスさま、私という者は、まるで罪そのものの様な存在なのですが。」
つまり、それだけしか出来ないのが人間だし、それそのものを赦されているのがクリスチャンなのだと思う。
イエスが杯をとり、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。
「みな、この杯から飲みなさい。これは私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流される血です。」
毎月、月の最初の礼拝でいただく「契約の血」をどういう気持ちで口にしてきたのだろう。
イエスの血は人間の罪を洗い流す血。
神と人の契約。
通常、契約には両者、双方の約束が係っている。
資産、金銭、事項、条件、さまざまあるが、双方にとって互いに妥当な価値あるものだ。
神の側としては、イエスの血、つまり二つとない貴重で貴いものであり、神にとって一番大切で価値ある御子の命である。
ならば人間の側として契約に差し出すものは一体何だろう。
御子の血に対して対等、平等なもの?
敢えて言えば罪?NOである。
人間の血にとりわけて価値はない。
人という存在?
わからない・・・・。
あなたは知っておられるだろうか?
イエスの血潮と同等の価値あるものとは?
それは、「あなたというひとり」であり、「私」である。
まさか・・・・
だが、それしかない。
それ以外にない。
創造主、ヤハウェ、キリスト、時代の中で呼び名は変わったが、神が一番大切な存在はあなたである。
あなた方ではない、「あなた」である。
御子が血の代価を支払ってまでして、贖いたかったのは「あなた」である。
イエスの血だけが人を救える。
イエスの血だけがあなたを救った。
世界で二人とない方、イエスである。
神の血潮。
だからイエスは身からだを持つ必要があった。
御子以上であって御子に留まらない。
彼だけが救い主である。
彼に依る以外、人は決して救われない。
イエスに関らない限り、その人に救いはない。
あなたにとってイエスはやはり御子の域を出ないのだろうか。
それは今まで教えられてきた御子イエスであって、彼はやはり神になれないのだろうか。
ひとの思いが彼の立ち位置を決めることなどあり得ない。
人間の思い込みが、彼を宙ぶらりんにすることなどあり得ない。
ヨハネ17章1~2
「父よ、時が来ました。あなたの子が栄光を現すために、子の栄光を現してください。
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたはすべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。」