■キリスト者の住処/Ⅰコリント11:1~9
キリスト者の居所、それは単に私の住所ではない。
この世に於ける住処というより、イエスと生きる次元であり彼と生きる時間である。
このような言い回しをする様になったのは、数年前に学んだ一年半の聖書問答からだった。
ヨハネ福音書を徹底して一節ずつ、それこそ舐めるようにして取り組んだ。
ヨハネが何を言いたかったのか、そこだけに首を突っ込んでみた。
使徒ヨハネはイエスこそ神である、と一生懸命に訴えていた。
日本の教会は「イエスは御子であると教えてきた。
御子には違いないが、イエスは神である、と私は納得した。
以前は「神さま」「神さま」と言っていた私であるが、今は「イエス」「イエスさま」と呼ぶようになった。
「わたしを見たものは父を見た。」といわれ、「わたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。」とも言われた。
ヨハネ14章のいうとおり、クリスチャンはイエスを知るのが最も大切だと思う。
クリスチャンとは「キリストの者」であり、「キリストのもの」である。
私が居るところはキリストのおられるところ、キリストのおられる所こそ、私が居るべきところと考える。
旧約聖書に登場する神は「ヤハウェ」と呼ばれた方。
ヤハウェとは「わたしは有って有るもの」と、主はモーセに自己紹介された。
やがて「ヤハウェ」と呼ぶことを恐れたㇸブル人達は長い間「アドナイ」=「主」と呼んで生きてきた。
あまりに畏れ多くてヤハウェとは呼べなかったのである。
イエスという名は、何と身近な名前だろう。
神の方から近寄って来られたのだ。
人間のために、罪びとのために、イエスは近寄ってくださった。
それは私たちが救われる為である。
それ以外に理由はない。
人間が近づこうとして救われるのでなく、イエスが近づいてくれたから救われたのである。
私は9月の前半、アメリカに滞在した。
アメリカの田舎町の教会で二週ほど礼拝と教会学校を過ごした。
今回はとても恵まれた。
恩寵そのものだった。
持って行った本は二冊だけ。
一冊は当然乍ら聖書。
もう一冊は「高倉健」さんを、ジャーナリストが追っかけて書いた事実に近い本。
俗的な興味本位ではなく、真実の健さんを知らされた。
読みたくて買った本だが、中々読めなくて、ずっと書棚にあった。
大好きな健さんであるが、非常にクローズな私生活を送ったスターだった。
スターの中のスターである。
健さんは死んでいなくなっても、骨だけになってもスターであり続けるひとなんだ、と思った。
映画からは知ることが出来ない健さんであるが、彼の人生と死後からは、人間の儚さがスターであるがゆえに痛烈な思いにさせられた。
私達も必ずこの世を去る。
そしてイエスと会える。
クリスチャンであるならば・・・。
イエスという存在を人生と自分で受け入れたのであれば・・。
結局、この一点だけが、この人生で間違いなく輝き続けるものだ。
死んでよみがえられた、たったひとりの方。
イエス・キリストは生きておられる。
すべてのクリスチャンこそが、キリストの住処であるように。