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■主は断念されたのか/創世記8:13~22

December 15, 2019

大雨は40日40夜ふり続き、地のすべての生き物である動物、鳥、人間は水の底で息絶えた。

と、聖書は言う、創世記7章22節。

『いのちの息を吹き込まれたもので、乾いた地の上にいたものはみな死んだ。』

創造主はご自分が造られた地上の生き物達すべてを消しさられた。

自然界に罪があったのか?

無い!

人間の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いたからだ。

創造主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められたと書いてある。

聖書の神は全知全能の神である。

決して間違いを犯さない方である。

それは、すべてをお見通しだからである。

自然界はすべて神のご支配に従ってきた。

だが、人間は違った。

ならば、それを見通せなかった神の過ちなのだろうか。

 

人が自由意思をもって創造主の前に生きることは、神の御意志である。

人はロボットではない。

創造主は人が自らの意志によって、主を礼拝することを願われた。

だが、人間は神に向かって反旗を翻した。

その心はいつも神の御心の反対を選んだ。

放ってくと益々、その先へ突っ走る。

結果、主は地上に人を造ったことを悔やまれた。

主はアガペー(無限の愛)をもって人に接して来られたのに。

主は限りなく御心を痛められたのに。

「見よ、それは非常に良かった!」と、創世記1章の終わりは言ったのに。

 

ノアの時代、人間は限りなく神の前に堕落し、地は暴虐に満ちていたと聖書はいう。

やはり、人間とは自由を取り違える生き物だった。

要するに我々は『本当の自由』を知らない生き物なのだ。

イエスを知らない人生で生き続ける限り・・・・

 

大雨が終わり、その後何カ月も掛かって水はひき、地は渇き始めた。

箱舟から出たノアが最初にしたことは、主を礼拝することだった。

全焼の「生贄」の香りは空へと立ち上り、創造主への「なだめの香り」となった。

そして主はいわれた、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことはすまい。すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。人の心の思い計ることは初めから悪であるからだ。」

人間のゆえに、創造主である神は苦しみ悔やみ、人間のゆえに自然界の生き物は犠牲になった。

昔、読んだ本で修道僧が吐露した言葉を思い出す。

「神よ、私の存在そのものが罪なのです。」

痛くて重い告白だった。

 

自然界が造られた目的は何だったのか。

それは人のためだった。

月、星、太陽、雨や雪、人が生きるため、人生を楽しみ、人生の潤いとなり、動物や鳥、魚、虫や蝶、山や川、海と湖、すべて人と共にと生きるため、そして自然界を造られた創造主の御配慮を計り知るために。

目に見えない御霊なる方は、人間の目と心を癒すためにも自然界を造られた。

 

わたしは雲の中に虹を立てる。

それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。

 

私たちのちっぽけな頭と想像力で、創造主を思い計ることは出来ない。

遠い宇宙、何億光年という距離など想像も出来ない。

つい最近、目にすることが出来た「ブラック・ホール」の姿と全体の距離と大きさなど、幾ら説明と数値を教えられても想像できなかった。

だが、創造主にとって、あの宇宙さえ足台でしかない方が、私の神と言われると、その偉大さの前に平伏するしかない方だとわかる。

 

なんとも耳のいたい手紙があった。

「キリスト不在」というタイトルで書かれたもの。

 

『昔、イエスの時代には、病の人たちを初めとして、苦しむ人たちはこぞってイエスを求めて集まったものです。

でも今の世は、この世で恵まれた人たちが教会に来るのです。

体調が悪くて休んでいたい、場合によっては病院に行くので礼拝を休みます。

牧師は思う、「そうですね、そんな状態では大変ですよね。」

そうですね・・・、キリストが留守だから当然なのです。

病気だから、苦しいから、困っているからキリストに出会いたい、癒して欲しい。

でも今は・・・・キリストがいない。

そうだろうか、キリストのいない礼拝。

キリストのいない集会。

それって、なに・・・?

だって、どこの教会でも「○○〇キリスト教会」って看板背負ってるではないですか。

・・そうか、皆でイエスを背負ってるんだよね、看板とおんなじで。

いつの間にか、そういう教会になってしまったんだろうか。

イエスに背負ってもらってないってことが問題なんだよな。

本末転倒以外のなにものでもない。

悔い改めよう、それしかない。

病気の人も、教会側もイエスに背負ってもらうのだ。

そこにこそ、キリスト不在でなくなる教会の秘訣がある。

 

「主イエスはナザレの村で力あるわざが出来なかった。」とマルコ6章5節に書いてある。

その理由は、故郷の村人がイエスを信じなかった、からだった。

 

『イエスは彼らの不信仰に驚かれた・』マルコ6:6

主よ、驚かせるばかりでごめんなさい、たまには別のことで驚かせたいのですが・・信仰が薄いもので。

(あ~、また言っちゃった。信仰はイエスさまからいただいたものなのに。)

 

 

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