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■ガマリエルというひと/使徒5:27~42

この世でまだ「キリスト教会」と呼ばれていない時代があった。

いわゆる原始キリスト教会時代であるが、当時の弟子と、信徒たちが見上げていたものは、復活のイエスご自身と、その「イエス・キリストという御名」だけだった。

彼らには余分な神学や解釈などなかった。

つまり人の心を難解にし、捏ね繰り回すものが無いため、純粋で一途の大胆と勇気があった。

迷うことも脇道も無いという、真っすぐな信仰姿勢に反対する相手は同様程度の熱い敵も多かった。

彼らはユダヤ教徒、ラビ、議会、祭司達であったが、決して100%が猛反対する人たちではなかった。

パリサイびとやそのリーダー達の幾人かは、イエスに関しては好意的に見ていたし、心動かされた人たちも少なくなかった。

 

キリストの使徒と弟子たち、信徒たちの確信に満ちた伝道によって、エルサレムに住む多くの人たちが福音にとらえられて行った。

凄まじい程の勢いでイエスの御名が讃えられ、民衆がキリストに立ち返る景色はユダヤ教からしてみれば脅威の的であった。

「このままではいけない、あいつらを何とかして早く始末せねば。」当然であった。

特に先頭をきって宣教するペテロやヨハネらは常に目をつけられていた。

 

振り返って今尚思うこと。

なぜ、この世はこれ程までにしてイエスを憎むのだろう?

実は私も、多いにそういう類の輩だったので、当時のユダヤ人の気持ちが今更に理解出来るのだ。

なぜ人間はわけもなくイエスを憎むのか、考えてみた。(かなり穿った見方であるが・・)

 

1、人はその誕生の初めからイエスが嫌いなのである。(特にヤオロズの神々を祀るこの民族は。)

2、彼らはまったくイエスを知らないからである。(これが大正解かも知れない。)

3、元来、人は神に対し、好意よりも敵意を持ちやすい。

4、宗教心とはそもそも自分が中心であってイエスではない。

 

ちなみに今、信仰歴42年クリスチャンの私はイエスが大好きである。

但し、良いクリスチャンというイメージからは、かけ離れたと自分であると自覚するが、イエスは最愛の親分であり、ボスである。

かといって初めからそうだったわけではない。

いつからか、そうなったのである。

ざっと考えてヨハネ14:6辺りの数節が確実に捉えられた頃かと思う。

当時、神様、神さまと言い立てる同胞に少し辟易(すみません、謝罪します。)し始めていたからか。

神さまと呼んだって間違いでは無いが、そういうお方達の周辺にイエスが見当たらないなぁと思った次第である。

まあ相当の利己主義で、あまのじゃく、へそ曲がりの私だからこそ、そう思ったかも知れない。

人が喜んでいることに腹が立つ、実に可愛げの無いのが私の本性だと思う。

客観的に見ても、かなり偏屈な奴である。

なればこそ、そんな自分を手間暇掛け、しつけて、ならして、下さった親分は二人といない方なのだ。

そういうわけで、どれほどのイエス嫌いとしても、一旦彼を分かってしまうと、かえって大好きになれるかものなのだ。

大好きの対極は大嫌いである。

つまり40年近くも掛かって、あっちの端から、こっちの端までじわじわ移動したわけである。

「おぎゃあ」と生まれた赤ん坊が十二分に中年と呼ばれるまでの時間を掛けて、イエスは私を乗りこなして下さったとは、文字通り彼は絶対に諦めない方である。

そんな方だから、今の私がある、としか言いようがない。

 

十字架で殺したイエスをもう一度殺すことは出来ない、ならば弟子たちとその輩を根こそぎの一網打尽にしてくれようと、「イエスを分からないで嫌いな連中」は頭から湯気を立てていた連中の記事が、使徒5章の後半。

ところが神はひょんなところに助け手を用意されておられたのだ。

すべての人に尊敬されている律法学者「ガマリエル」という人が息巻くユダヤ人議会の中で立ち上がった。

そして言った。

「これまでに幾人もが王宮とローマ政府に立ち向かったことは忘れていまい。チゥダという男は400人の男共を従えたが、結局彼は殺され、従ったものはみな蜘蛛の子の様に散らされた。ガリラヤ人のユダは民衆をそそのかして、クーデターを起こしたが、自分は滅び、従ったものはあちこちに散らされた。」

そしてガマリエルは言う。

「そこで今、あなた方に言いたい。あの人たち(イエスを信じる者たち)から手を引き、放っておけ。仮に彼らの計画が人から出たものなら自滅するだろう。

だが、もし神から出たことであるなら、あなた方は神に敵対する者になってしまうのだ。」

時として主なる神が為さることなど人間は読み切れない。

大敵の真ん中から、キリストの弟子に好感を持つ器を備えて下さったのだ。

 

ガマリエルの言葉によって人々は使徒達を開放した。

彼の言葉は長いものではなかった。

それは冷静に、順序だてて、可と非を建設的に組み立てた。

そして「もし」ということばを幾度も使っている。

不安なとき、私たちが使う「もし」はネガティブィブである。

決して右肩上がりにならない。

ガマリエルの言葉の中心に「神」という意識と位置づけがあるから言葉が前向きに捉えられる。

彼等こそ、神ヤハウェを信奉し、律法を学んでいた。

もし、ひとの心に主とキリストが存在するなら、生き方も前向きになる!

 

律法学者ガマリエルの言葉が原始キリスト教会を最悪から救った場面だった。

しかし、これさえもガマリエルがイエスを前向きに考え、そしてキリストの弟子たちを見ていたからだ。

これも主なる神、キリストの摂理だった。

今が暗くても、やがて日は上る。

今は負けたようでも、凱旋のキリストは十字架と死を今なお乗り越え続ける勝利の主!

ひとを苦しみと罪から救う主は彼しかいない!

忘れまい!

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