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■石を枕に見た夢は/創世記27:46~28:22

当然であるが、創世記時代にキリスト教会は存在しなかった。

神学も律法も教会員も無いし、クリスチャンコミュニティも無かった。

人間同士が本能のままに生きていて、なんとも生々しい時代であった。

そこから伝わって来る事は、現代に生きる人間達と資質は殆ど変らないということ。

つまり文明と文化は全く異なるのに、特に3千年などという時代のギャップに関わらず、人間そのものは大差ないと思わせられてしまうのが、聖書の凄さである。

環境と文明が、文化、そして国や人種が変わっても、人間の本質的な部分では殆ど変りない。

だから聖書は今もって私達の人生に活力と夢を与えて続けていてくれる。

アブラハムとサライの夫婦、それぞれの考えも行動も異なる。

同じ主を見上げ考えていたにせよ、生きる方向と生活する価値観は微妙にずれていた。

イサクとリベカとて同様。

こちらは行動力と価値観で大きな差があった。

イサクはゆったりと柔和に生き、リベカは将来を案じ、行動が早かった。

唯一神の前で彼らは堂々と、時として主に反抗しながら生きていた。

神は、そんな彼らを大きな視野と心で見守っておられた。

「不ぞろいな林檎たち」というタイトルを昔、聞いたことがあったので、ふとそういうネーミングを思いついた。

古い英訳の聖書では「瞳」と訳すところを「林檎を愛おしむ如く、神が愛する」と表現した。

神は人間をそれほどまでに慈しんでくださっているという思いが伝わってくるのだ。

現代のキリスト者夫婦とて、どこのカップルも「不ぞろいの林檎たち」と思う。

裏がへせば、それだけ「唯一の生ける神は懐が広く深い」からと思う。

だが、神のとき至れば、二人は一つの道に戻る。

これが不思議である。

だから私は神の介入と言う。

口語訳の聖書に登場する貴重な言葉がある。

それは「嗣業」(しぎょう)という言葉であるが、広辞苑には存在しない。

意味は、相続する対象を幅広く示すものである。

土地、国、生き方、信仰、事業、取組みなど沢山ある。

申命記ではヤコブ(イスラエル)が主に振り分けられた嗣業であった、とある。

つまりヤコブは神が相続した割り当て地、割り当てられた民族である。

そして、それに追従するのは信仰、血族、領土、そして約束であった。

それを考えるだけでも、イスラエルがどれほど主から愛されていたかを想像できる。

アブラハムが祝福の基とされ、イサクへ、そしてヤコブへ、そしてイスラエルへと嗣業が受け継がれて行った。

特にこの嗣業には明らかな二種類の祝福がある。

一つは目に見えるものと、もう一つは目に見えないものである。

見えるものは民族、そして土地であった。

見えないものは、主がアブラハムに賜った「約束(契約)」であり、主である神が彼らと共に在るという「臨在」である。

神の嗣業を受け継いで生きる民族には、それにふさわしいの生き方があった。

それは彼らの人生において、神に生きるという機軸であり、どんなことが起きようとも主に向かって行く、主に戻って行くというものである。

イサクとリベカが「不ぞろいな生き方」をした結果で招いたことは、次男が長男の家督権を騙し取ったことにある。

それでも神は次男であるヤコブの人生に臨在される。

その祝福はヤコブがアブラハムの祝福を継承したことであった。

ヤコブはイサクからの財産や長子の利益を受け継ぎはしなかったが、彼の血筋と神の契約はヤコブと共にあった。

母リベカの人間的と思えた策略は、ヤコブが神の祝福の下に生きる人生となった。

長子の祝福を奪われたヤコブに対するエサウの殺意は到底おさまらなかった。

両親はヤコブを遠いリベカの故郷、兄ラバンの家へと遣わした。

リベカがヤコブに「お兄さんの怒りがおさまったら、必ずあなたを連れ戻すから。。」と送り出した朝、彼女が息子の顔を見る最後の瞬間になるとは・・・。

両親と別れ、見知らぬ町と荒れ野を旅する孤独なヤコブ、さぞかし寂しかったであろう。

真っ暗闇の中、星の下でヤコブは石を枕に横たわった。

慣れ親しんだ家のベッド、そして母リベカの顔が浮かんだであろう。

母がたくらんだ家督権奪取の計画はあれ程うまく行ったのに、此の荒野ではたった独りぼっち。

ようやくウトウトまどろんだヤコブは夢を見た。

夢の中でみたものは。。。天使が梯子を登ったり下りたりしている不思議な景色だった。

そして主がヤコブの傍らに立たれた。

主は言われた。「わたしはあなたと共にあり、あなたが何処へ行っても、あなたを守り、あなたをこの地へ連れ戻す。あなたに約束したことを成し遂げるまで、わたしは決してあなたを離さない。」

ヤコブは眠りから覚めて言った。

「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。

この場所は何と畏れ多いことだろう。此処は神の家にほかならない。ここは天の門だ。」

それはヤコブの人生で生まれて初めて、生ける神に出合い、主を覚えた瞬間だった。

「わたしは決してあなたを離さない。」何と力強い言葉だろう。

これ以上に強い主の言葉があるだろうか。

だが、新約のキリストを信じる者は、これと同じ言葉を聞いているのだ。

そして、ことばだけではない。

キリストご自身が十字架を担いで下さったことは、誰の為か?

それこそ、人類ひとりひとり、すべての人間の為だったではないか。

あなたのために、そして私のために。

十字架こそ、「わたしは決してあなたを見捨てない!」神の言葉が現実になった証拠である。

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