■ヤハウェはバビロンの上に/ダニエル4:28~37

ペルシア湾に注ぎ込む二つの大河、ユーフラテス川とティグリス川は上流から下流、そして河口に至るまでの広大な地域に、緑と命をもたらし栄えさえた。 そしてペルシア湾に注ぎ込む河口付近は、上流からの土や自然界の雑多な産物が運び込まれ、更なる肥沃地帯を造り出した。 恵みの土砂を運んだ川は、大昔よりも数十キロ以上河口を押し上げた。 水は自然界に生命と発展をもたらすべく創造主の偉大なる贈りものだった。 人間世界が栄えるということは、時代において飽くなき栄枯盛衰が繰り返されるということでもある。 アッシリヤからバビロ二ヤ、そしてペルシア帝国への移行する時代絵巻は、聖書に多く関わりヘブル人からイスラエル、そしてユダに至るカナンの移り変わりの経緯と共に、聖書そのものから切り離すことは到底出来ない。 ふと、思い立ったが吉日で、出来れば直ぐにでも飛んで行き、かの地の景色と空気と土の香りに触れてみたいと思ったが、現在の多国情勢は微塵も許さない様相である。 それらはイラク北部とシリヤ西部が国境を分けた地帯であったからだ。 「かの地」に思いを馳せるとき、ウルから旅したアブラハム、イサクの嫁探しを「しもべ」に託して出会ったリベカのこと、そしてヤコブと12部族にとって切っても切れないラケルとレアの姉妹の確執、その父ラバンとヤコブの相克など、生々しく繰り広げられる人間の愛憎絡む物語は創世記を綴り、私達の心を捉えて離さない。 私自身、「アブラハムの信仰一本」だけで聖書の中に引きずり込まれた次第であり、それ以外の何ものでもなかった。 メソポタミヤの空、バビロン帝国の空にさえ、ヤハウェは臨在された。 当然と言えば当然で

■夢解きびと/ダニエル書4:19~28

思い出すのは39年前。 初めて教会学校の先生に任命された。 「先生!」と初めて呼ばれた記念すべき日でもあったが、実際の耳にはくすぐったくて仕方なかった。 クリスチャンになって一年程度、教師経験ゼロ、頭で想像するだけの教師って、ありなの? 教会付属の幼稚園を持っているので、日曜朝の幼稚園に子どもはウジャウジャいた。 小3と小4、元気活発な子供達30人近くが私の担当区域。 四月の第一日曜日、テキストは「ヤオロズの神」に関するものだった。 その朝、自分のクリスチャン人生の使命が迫った。 「日本の八百万(やおろず)の神々と偶像に囲まれた子供たちの魂をイエスの元へ」だった。 各言う私の育った環境こそ、八百万の神々の巣の中だった。 小学生を相手に34歳は喧嘩しながらも、聖書を教え、黒板に絵文字を書きながらの奮闘努力の日曜日だった。 たまには課外授業もいいだろう、という調子で自宅に子供達を招いて、菓子や食事でもてなした。 イエスさまは「わたしのところへ子供を連れて来なさい。」(マルコ10:14)と仰った。 子供の魂だって滅びゆくのだ。 漠然と朝の時間を過ごすのではなく、イエスが誰かを教え、救いの必要を教える。 よくよく考えて見ると、今の私はあの頃の私でもある。 殆ど変っていないと思う。 メッセイジと言えば、「信仰とその周辺」であって、社会、政治、世界、平和、殆ど扱わないぶきっちょな牧師。 「こんな牧師でよいのだろうか?」と自問自答の日々。 時として思う、「毎週、毎週飽きずに聞いてくれる教会は有り難い」のか、皆さん諦めているのか、神に与えられた牧師を受け入れるべく信仰に立っているのか、よく分か

■あなたには出来る!/ダニエル書4:4~19

人間が生きる所、国のリーダーにせよ、スターと言われた人にせよ、企業にせよ、実権と栄光を握る時ほど不安は増すものである。 「私は明日も来月も来年も、この栄誉と栄光と力を持ち続けられるだろうか?」 そういう場所に立ったことの無い私には、実際の気持ちは分からない。 但し、仮に特別の立場に着いた人でなくても、恵まれた場所を体験すると、絶対失いたくないと思うのが人の常だと考える。 例えば20世紀、アメリカにおける往年の著名な歌手や映画スター達のドキュメントを見て、いつもそれを実感する。 彼等は失うかも知れない人気の凋落と生活への不安、人生の奈落を想像して耐えきれずにドラックやアルコール、そして快楽に走り、家庭を壊して行った。 それは世界中、どの国においても、人間ならば同様であるだろう。 権力と名誉、名声と人気は人間にとって、勝ち得ない不安を抱かせるのである。 つくづく思うのは、そういう事とは無関係の身であるということ、つまり平凡な人生にある人の幸せ感と平安である。 増してや、イエスの言葉が重なれば、並であることが本当に感謝である。 「わたしはあなた方に平安を残します。わたしはあなた方にわたしの平安を与えます。わたしがあなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。」ヨハネ14章27節 そんな平安を感じられるのは並であるからこそではないか。 紀元前600年に立ちあがったバビロン帝国、その最高権力者は「ネブカデネザル王」。 それ以前のメソポタミヤの君主「アッシリヤ帝国」は、日本の徳川時代をはるかに超えた700年に及ぶ勢力を維持したが、やはり永遠では無かった。 栄枯盛衰、人の世も権力の座もすべ

■いと高き神のしもべたち/ダニエル書3:16~30

三人のユダヤ人捕虜の青年たちはバビロン帝国の王に向かって凛として言い放った。 「王よ、私達の仕える神は燃える炉の中からでも、王の手からも救い出してくださいます。 王よ。仮にそうでなくとも、私達はあなたとあなたの建てた金の像を拝むことはしません。」 ネブカデネザルの怒りは沸点に達し、彼は家来に向かって叫んでいた。 「炉の熱さを、いつもの何十倍にも増し加えよ。」 炎は唸りをあげて熱く燃え盛った。 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は縛られたまま炉に投げ込まれた。 その際、彼等を炉に押し入れようとした者達数名は、その場で焼け死んだ、と聖書は語る。 だがそのとき、ネブカデネザル王は急いで立ち上がったかと思うと、余りの熱さに手で顔を覆いながら叫んだ。 「我々はたった今、三名の者を縛ったまま、炉に投げ込んだのではないか。」 「王様、その通りでございます。」家来が答える。 「だが、わしには四人が火の中を歩いているのが見えるぞ。しかも彼等は何の害も受けてない。 そればかりか、四人目の者は神々の子のようだ。」 この場面、どう説明されようと迷う場面であった。 だが、聖書は真剣に語っている。 有り得ないから、信じられないのか。 一瞬の誘惑に落ちるところだった。 聖書は神のことば、神の御目とご意志と御霊によって書かれたもの。 つまり、「それでも、あなたはわたしを信じるか?」という問いを読者に投げかけている。 聖書は人間の理性を求めてはいない。 神は人間に信仰というものを促しているのだ。 聖書は束の間の信仰など求めていない。 信仰とは、どんなことが起ころうと、主であるキリストを信じ続けることである

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