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■エデンの東、ノデの地/創世記4:16~26

この地上がかつて「エデンの園」として置かれたときは、100%主の御意志とことばで創造され、自然界すべては平安と祝福に満たされて、人も獣もすべての生き物は安らいでいた。

たった一度の出来事によって、すべては別世界となった。

アダムとエバが主の御意志を無視した時である。

人は「エデンの園」から追い出され、エデンの東で生活するようになった。

エデンの東でカインが弟アベルを殺したことにより、カインはひとり両親から離れ「ノデの地」に移り住んだ。

ノデとは「さすらう」という意味で、カインの人生が流浪の人生となった象徴そのものだった。

それこそ、裏返せば人類そのものが流離う(さすらう)宿命となった。

「ノデの地」とは単に土地から土地へとさすらう意味ではなく、神から離れ自己中心に生きること自体を指している。

思えば、私自身も生まれてから33年間をノデの地で暮らしていた、ということになる。

人は働き、汗して食を得、寝ては起き、起きては食し、人は食べるために働いた。

子孫は子を産み育て、その孫たちはつないで生き、やがては大家族になり、更に増えていった。

彼らは自分が得意とする仕事を編み出し、さまざまな職業を築きあげた。

やがて7世代も増え続けると膨大な人間社会になったであろう。

聖書はカインの子がエノクで、エノクにはイラデにはが生まれ、イラデにはメフヤエルにはメトシャエルが生まれ・・・とひとりも落とさず延々と列記している。

人々の営みの中には傷害事件も殺人事件も起こり、更には復讐へとつながった記事もある。

この数十行を使って書かれた聖書の中から、私たちは何を読み取れるのだろう。

はっきり言って何も無い。

人間の一生と仕事と、諍いと争いと、自己主張だけは読み取れた。

だが、そこから読み取れない言葉であり、存在であるとしたら、「主」「神」「祈り」といった言葉がまったく皆無なのである。

彼らの心と人生に神が不在であるなら、仮に神ご自身が天におわしましても、地では御不在、不要な方になってしまう。

まず「初めに人ありき」の世界だけだとしたら何処に生きても、ゆとりも平安も感謝も祝福も意識出来ないだろう。

つまり、幾ら人間の営みだけを粛々と継続したにせよ、「主なる神」という言葉も信仰も見えて来ないとしたら、最も価値ある「心のゆとり」など存在しないのである。

人生がわからない。

生まれてきた意味も解らない。

生きること、死ぬこと、すべてに意味がない。

それが動物的生き方なのだろうか。

だが、人は動物ではない。

だから単に食べる、飲むだけでも、労働があっても、趣味を楽しんでみても、自分を満たしきれないものを感じるのが人間なのである。

カインと末裔達の生き様を読んでみて。

其処に一つだけ、すべての人間が生まれついて欠けているものがある。

その後の人生で、欠けていた一つを手にするか否かで人生がまるきり違ったものになる。

その一つとは、私たちのイエスである。

私たちの主である。

アダムとエバの時から変わらない主である。

人と自然界を造られた主が、あなたに臨在か不在かということが決定的な分岐点となる。

日本にだって大昔から八百万の神々と新興宗教がある。

だが、聖書の神は不在だった。

実際は不在ではなかったが、日本人は見える神々を求め、キリストとキリシタンを憎んだ。

カインの末裔7世代も忘れていた「主」なる神。

だが、4章の終わりで聖書は一筋の光を見させてくださった。

『アダムは更にその妻を知った。

彼女は男の子を産みその名をセツと名づけた。

「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに神は私にもうひとりの子を授けられた。」

やがて一世代後、セツにも男の子が生まれた。

彼はその子にエノシュと名付けた。

そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。(創世記4:25~26)

創世記が暗闇と絶望の時代の真ん中を語っているにせよ、既に黎明期の訪れを告げたることは、人間が神を忘れても、神は決して人間を忘れてはいないということで、ある。

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