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創世記15:1~6
- 2016年1月31日
■ 創世記のキリスト者 / 創世記15:1~6
「創世記のキリスト者」というタイトル。
自分ながらチグハグと思うより、逆にマッチしていると思った。
確かに新約聖書時代は教会がメイン舞台である。
そして創世記時代、教会は無い。
無いどころか聖書とか信仰の友だっていなかった。
そういう時代、信仰者にとって心の拠り所はヤハウェ(神)おひとりである。
幸せなことにヤハウェは族長アブラハムに直に語り、夢で語り、御使いや人の姿をもって現れてくださった。
私がクリスチャンに成れたきっかけは、アブラハムの生きざまだった。
イサク奉献の場面では実に切迫感と臨場感を伴って、聖霊が私に問われた。
「どうだ?あなたはアブラハムの真似ができるか?彼の信仰をどう思う?」
聖書の中身は一切分からず、心が完全に閉じていた私にとって、それらはいきなりの金槌で頭を殴られた位のショックだった。
もし神がおられるなら。。。この聖書の神に賭けてみようかな。。。程度の出発だった。
以来38年間、アブラハムの信仰姿勢はずっと私の理想である。
アブラハムとて普通の人間である。
祭壇を築き、和解と感謝の生贄を
ルカ10:1~11
- 2016年1月24日
■ イエスが呼ばれた / ルカ10:1~11
ルカ10章「その後、主は別に70人を定め・・・」
マルコ3章「さてイエスは山に登り、ご自身のお望みになる者達を呼び寄せられたので・・・」 イエスは常に、ご自身が望まれる者達を呼ばれた。
クリスチャンになったけど、急に進むべき道、歩くべき道が分からなくなる時がある。
クリスチャンとしてそこそこになるけれど、主から何を望まれているのか分からない人だって少なくない。
それらは誰にでもあることだ。
必ずと言ってよいほどに。
初めから進むべき道をまっすぐに歩く人など殆どいない。
誰だって当初は迷い、道を外れてしまったり、脇道へそれたりする。
迷いっぱなしの人だっている。
つまり、迷うべくして迷うのであるが。。。
それでさえ別におかしなことではない。
そうやって人は歩み、求めるべき信仰の道を求めて行く。
これぞ求道者である。
やみくもに求め続けるのが求道者ではない。
しかし、神と神のことばに留まり続けるなら、いつか必ずイエスから呼ばれる日は来る。 そして覚えよう。
イエスがあなたを呼ばれたということを。
これが一番大切
マタイ12:28~33
- 2016年1月17日
■ 神の御手にこねられて / マタイ12:28~33
「もし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなた方のところに来ているのです。」[マタイ12:28] 果たして私の以前は、悪霊どもの巣窟だった。
笑い話でもオカルト話でもない。事実である。
罪という言葉も内容も理解出来なかった。
自由という言葉さえも理解していなかった。
であるなら私たちはサタンの僕、端女であったのか。。。。
その通りである。 そして私は相手が誰であろうと、謝る人間ではなかった。
謝るくらいなら腹を切る、位だと思っていた。
この部分では自分でも呆れている。
つまり傲慢なのか、自尊心が高すぎるのか、真実を認めたくないのか。
だが、こんな輩のところにも、イエスは立ち寄って下さった。
1978年3月12日のこと。
あれからイエスさまはずっと帰らないで私のもとに居残ってくださった。
たまにはお帰りになればいいのにと、幾度か思ったこともあるけれど彼はずっと居残ってくれた。
神の国は限りなく我慢強く寛容である。 間違いなくイエスによって神の国が私の中に来た。
真の赦しと