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新約聖書/第一ヨハネの手紙
- 2016年12月25日
■教会は愛の(アガペー)塊/1ヨハネ4:7~21
昔から眺めて来た画、聖なる夜の聖家族。 生まれたばかりのイエスを大切そうに抱くマリヤ、母子を覗き込むように見守るヨセフ。 少女の様なマリヤの横顔、そして大人びたヨセフの目は神秘そのものの嬰児を凝視していた。 色々な画家が描いた画にせよ、三人を取り巻く空気は世の平安というより、どことなく不安気だ。 心配がいっぱいに漂っている様でも、静けさと厳かな空気は彼らを包んでいた。 それは8人もの大人たちが、赤子のイエスに神経を集中しているからだと思う。 暗闇に浮かぶ聖家族、ロバや羊が隅にはべり、三人の博士達も笑みを含んで見守る面持ち。 仮にあの場に自分が置かれたとしたら、どんな気持ちで彼らに連なっているのだろう。 そして今年気づかされたことが一つ。 私は描かれた登場人物ばかりを見ていたが、画家さえも描けなかった存在を見るべきだった。 それは父なる神、御霊の神だ。 神はイエスを世に生まれさせ給い、今、御子をマリヤの腕の中に納めさせ給うた。 神はその偉大なる事業を遂に達成せられたのである。 その達成感こそ、私達が見ようとすべきものでなく、汲み取って行くべきもので
新約聖書/コリントひとへの手紙第二8:1~15
- 2016年12月11日
■マケドニヤ教会への分け前/Ⅱコリント8:1~15
今から1960年ほど前、キリスト教会は地中海沿岸部西のギリシャと上のトルコ地方に散らばっていた約10数か所程度だった。 しかし、現在の様な教団教派の境やカラーはなく、実に純粋でキリストだけを意識する交わりのあるものだった。 彼らは20に届かない教会数ではあったが、熱く自由に行き来し、そして助け合いもあった。 当然、様々な問題もあったが、弟子達の指導と祈りは彼らの頼りとするところであった。 アテネから地中海沿いに海辺をなぞって上って行くと、間もなくテサロニケ(今のテッサロニーキ)があり、ピリピの町があり、それらはマケドニヤ州に属していた。 だから聖書では「マケドニヤの教会」と紹介されている。 べレヤ、テサロニケ、ピリピといった、これらの教会は金銭的にも非常に貧しく、異教の迫害下に置かれ苦しみの絶えなかったクリスチャン達の群れであった。 しかし、そういう環境の中であればこそ、彼らの信仰は純粋で熱く燃え、神の愛は形となっていた。 一方、エルサレムの教会とて、貧しさでは負けていない程、貧困の日々が続いていた。 しかし、エルサレム教会は福音の基地であり、使
新約聖書/ヨハネ福音書
- 2016年12月4日
■平和の主は唯ひとり/ヨハネ8:1~18
人が誰かを裁くとき、裁きの基準は自分の価値観である。 たとえ彼がすべてを理性に委ねたにせよ、基準は自分である。 仲間の意見を参考にしたとしても、基準は自分である。 だとしたら、私達が誰かを裁くとき、同じ思いで自分を裁けるだろうか。 無理である。 利己的で自己中心な人間という生き物には無理である。 但し、たまに例外もあるとは言える。 ならば神であるイエスは、どういう目で人々を見ておられたのだろう。 彼はご自分だけで見られたのではない。 わたしは父なる神と見ている、といわれた。 だから間違いは犯さないと・・・ 「あなた方は肉によって裁く」とも、いわれた。 肉とは、生まれながらの性質であり、通常は「質」(たち)という表現もある。 各人にとって一番厄介なものでもある。 厄介な質が横暴極まりない結果を招くことが悲劇の始まりだ。 裁判官ならこの世に幾らでもいるだろう。 だが、裁判官とて人間である。 弱さも欠けもあるだろう。 確かに法律に従って、彼は裁きを下す。 それでも間違いを犯すことはある。 法律自体、人間が作ったのだから。 イエスの前に姦淫の現場で捕まっ