■ノアは神と共に歩んだ/創世記6:6~22

私が「ノア」のことを、どうして知ったのかというと、おそらく小学校低学年だったと思う。 終戦後6年~8年頃の時代、思い出はすべて赤茶けた景色の中に埋もれて行った。 兎に角、貧しい。 麦飯のおかずがない。 皆が無いのだから愚痴も出ない。 そんな時代でも、生きようとしている社会のエネルギーは、子供ながら感じていた。 小学校の図書室は私にとって、宝物の部屋だった。 だから「6年生の終わりまでには図書室の本を全部読んでやろう。」と思っていたことだけは鮮明に残っている。 33歳で教会に通い始めたが、つんぼ桟敷を決め込んでいたためか、何も変わらず二カ月と12日が経った。 初めて前向きな気持ちで創世記を読んだのが神話なのか作り話なのか、という思いでピンと来なかった。 しばらく読み進んでから「ノア」という名前に出会い、子供の頃に別れた友達に出会った思いがした。 そんなノアに惹かれて読んでいると、アブラハムの信仰の記事まで大した時間は要らなかった。 つまり面白かった、のである。 初めて前向きに、自分の思いに導かれるまま聖書に向かったという具合である。 そして、その晩の内に私はイエスを受け入れた。 ノアの時代は堕落と暴虐の時代だった。 「主は人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」と聖書はいう。 しかし、ノアだけは主の心にかなっていた。 ノアは神と共に歩んだと書いてある。 だが、ノアがガチガチの堅物で融通の利かない人かというと、そうではないと思う。 要するに「主を仰ぎ、主と共に生きた。」のである。 現代に生きるクリスチャンに思うこと。 正しく清廉潔白に誰からも好かれる善人として生きるべきだなどと、

■「人は肉にすぎない」/創世記5:24~6:5

主であるキリストを信じる人は多い。 だが、キリストと共に生きようとする人は少ない。 ましてや、キリストに従う人は更に少ない。 イエスさまの弟子達12人は、イエスご自身が直接的に彼らを選び、呼び出されたメンバーである。 マタイ伝で早々に登場する弟子たちであるが、イエスは並外れた力を彼らに授けている。 主に呼ばれて間もない頃の男たち。 特に弟子としての訓練を受けていなかった。 だがイエスが彼らを見込んだのである。 イエスが彼らを信頼したのである。 この辺を考えただけで、「イエスは凄い!」と思わざるを得ない。 伝道、キリストの弟子、どう考えても何一つ不適当に思えてならない面々だった。 しかし、である。 私達はいかがであろう。 「イエスを信じます。」という、ひと言程度で、私たちすべては、既に一丁前に信頼されたのである。 信用されているとは思えなくても、それは自分の感想に過ぎないのだ。 比べて、あの12人は朝から晩までイエスと一緒だった。 舟も網も仕事さえも捨てて、イエスに従って行った。 増して私たちは何十年もクリスチャンをやって来たし、聖霊さえも与えられたのに、である。 いつの間にか、私は上から目線だけで12弟子を見下していたのに気がついた。 ノアが五百歳になったとき、セム、ハム、ヤペテを生んだと聖書はいう。 この辺で躓かないでいただきたい。 聖書はまじめに五百歳と言っている。 色々言いたいことはあっても、まずは聖書を信じることである。 聖書は科学誌でもなければ、歴史の書でもない。 道徳の書でも、趣味の書でもない。 信仰の書、神の言葉が聖書である。 それを馬鹿らしいと考える人は圧倒的に

■黎明期/創世記5:3~24

黎明期という言葉、わずかに私の頭の隅の隅に引っかかっていたような言葉だった。 どこかで聞いたか、見たか分からないけれど、掘り下げてみたい響きある言葉。 きっとイエスさまが知らぬ間に置いといてくださったのかも知れない。 意味は「夜明け」とか「明け方」という。 それ以外では、「ある事柄が形となる前の段階」といった状況で使われる。 創世記一章1節~2節、まさに黎明期だった。 『地は形なく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。』 総じていうなら、聖書における黎明期は幾度もあったような思いがする。 御霊なるお方が物事を始めようとされている頃。 人間は何も悟れない、知らず感ぜず、だが「神の時」が迫っていた、というふうに。 世の終わりは必ず来る、と聖書は言う。 それは再臨のキリストが来られる時である。 それをどれ程のクリスチャンが信じているだろうか。 それは今日かも、明日かもわからない。 だが、いつか必ず来る。 主にある信徒であるならば「主よ、来てください。」と言いなさい、と黙示録の最後の最後に書いてある。 「わたしはすぐに来る」とイエスはいわれた。 救い主イエスの黎明期は2千年前、いや既に創世記の初めで語られていた。 「キリスト者であるなら、どれだけ生きたかではなく、どう生きたかを知るべし、である。」 と昔ある本で読んだ。 そうすれば、今日をどう生きるべきかを考えるからであろうからだ。 明日でなく、来年でなく、今を、今日を見据えて生きるのがベストである。 「今が恵みの時、今が救いの日」(Ⅱコリント6:2)、これがクリスチャンの口癖になったとしたら、何と素晴ら

■experience(体験)/マルコ4:14~23

道畑さん、岩地さん、茨さん、余市さん、この人たちは何れもイエスを救い主と信じ、受け入れた。 生まれて初めて出会った主を讃えつつ、嬉しい日々を送っていたクリスチャン達だった。 しかし、人生とは実に皮肉なものである。 昔、聞いた「坂本九」ちゃんの歌が頭をかすめる。 「花が咲くときゃ風が吹く 月が出てくりゃ雲になる とかくこの世はままならぬ 愚痴はよそうぜ 歌でも歌おう それがね それが浮世というものさ」 歌詞が頭に残っていた。 二番の出だし。 「好きなあの娘にゃ肘鉄喰らい 嫌いな娘にゃ惚れられる」 しつこく三番 「金があるときゃ暇がない 暇があるときゃ金がない」 確かに、この世は思ったように行かないものだ。 と、悟ってしまえば楽なのに。 いや、楽どころかとんでもない恵みに喜んでいるときもある。 想定外の贈り物を貰っている私たちなのだ。 思った様に行かない時があり、予想もしなかったハッピーが飛び来んで来るのも人生だ。 主の「みことば」は実に公平である。 何処にだって、誰に対してだって、語られ伝えられる。 つまり、この世のすべての人に向かって語られている。 イエスさまはちょくちょく言われた。 「聞く耳のある者は聞きなさい」と。 聞く耳をもって聞けば徳などやがて周り回って来る。 そうだ、主の仰せのとおり、聞く耳を持とう、という素直な気持ちが大切なのである。 道端さんは取り敢えず聞く耳はあったのだが、踏み固められた様な心が災いした。 一晩寝ただけで、み言葉など忘れてしまった。 岩地さんは喜んで聞いたのだが、心に根を張るに至らなかった。 興味も探求心も持たなかったからだ。 一応取り込んではみ

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