■この世はこの世/創世記29:14~35

大河ユーフラテスの上流に幾つかの支流がある。 それらの源流を束ねたかのように、ゆったり構えるのがパダン・アラム。 意味は「アラムの平地」「アラムの原野」で、メソポタミヤ北部の広大な地域である。 その地にやってきたのが放牧民として暮らしていたアブラハムの孫のヤコブだった。 彼の叔父はラバンという人でヤコブの母、リベカの兄だった。 ラバンは非常に利己的な男で、親戚であろうと甥であろうと、利用出来る物はお構いなしに利用した。 ヤコブが育ったベエル・シェバ近辺で暮らしている遊牧民(ベドウィン)などと違う狡猾で抜け目ない人々であるように思う。 ラバンの妹リベカにそんな一面を見た。 ヤコブがラバンの所でひと月ほど、暮らした頃だった。 叔父は言った。 「ヤコブよ、いくら親戚だからといって何もただで働くこともなかろう。報酬であれ、お前の思っていることを何でも言うがよかろう。」 ヤコブはラバンの娘のラケルを気に入っていたのでこう言った。 「それではラケルを私にください。もしそうして下さるなら、私はあなたに7年仕えましょう。」 ラバンはそれを受け入れ、ヤコブは約束通り7年ラバンに仕えた。 そして待ちに待ったその日が来て、ラバンは盛大な結婚の祝宴を催した。 遂にヤコブは愛するラケルを妻に迎えることになった。 暑い日も寒い日も、ラケルを娶れることを思えば、どんなことも耐えることが出来た。 初めての夜が過ぎ、朝になってヤコブは思わず驚愕の声をあげた。 何と隣に寝ている新妻はラケルではなく、姉のレアだった。 彼はラバンに問い質した。 ラバンは答えた。「我々のところでは、姉から先に嫁にやるしきたりだ。もしど

■ヤコブの涙/創世記29:1~14

創世記29章、荒野の危険な長旅の末、ヤコブが巡り合ったのが従妹のラケルという羊飼いの娘だった。 ヤコブは羊の水飲み場で出会ったラケルを確認したとき、そこに居た周囲の目も気にせず、彼女に口づけし、声をあげて泣いた、と聖書は記している。 何故、ヤコブは泣いたのか・・・ 聖書物語に登場する人々の営み、それは単なるストーリーと人物ではなく、世界の人々に示された人間のサンプルである。 聖書とは神の御霊に動かされた人々が後世に遺された遺書、遺作品、つまり偉大なる遺産。 目には見えない神が、往時の記者達の心と魂と指を動かし、書き留められたのが聖書である。 登場人物は、いつの時代にもいるであろう生身の人間に共通した性質や癖、長所と欠点、を備えている人々だ。 聖書を読む側の人は、登場人物に自分を重ね合わせて読むなら、自分も遠い昔の、あの場所に息づいていることを実感するだろう。 一般の書物とは決定的に違う点が其処にある。 それは主なる神が書き遺された書物である。 そして何故、ヤコブは泣いたのか・・・ ならば自分をヤコブに重ね合わせ、物語の中に飛び込んでみたらどうだろう。 ヤコブは家の中で暮らすことが好きな人物で物静かなタイプであった。 母はそんなヤコブをエサウに比べて特に気に入っていた。 平和に見えた質素な家庭は或る日、ガタガタと音を立てて崩れ去った。 母の狡猾な策略が功を奏し、家督権は長男エサウではなく、リベカのお気に入りヤコブの手中に滑り込んだ。 神の祝福である長子の権利、祝福という嗣業の受け渡しに、人間の悪知恵が功を果たしたとき、ヤコブは家にみ続けることが出来ず、生まれて初めての一人旅に出ざ

■キリストの下に/エペソ 5:22~31

聖書が教える理想の夫婦像は、エペソ人への手紙から読み取れる。 但し、それは夫婦二人に求められる究極の生き方であり、理想でもある。 だから手が届きそうでいて、実際は半端ない導きである。 すべてにおいて言えることだが、ひとは己が打ち砕かれないと、神が求める者には成れない。 ましてや夫婦とはお互い相手が居るのであって、独り相撲では済まないことだ。 だから、エペソ5章は大局的な見地から判断してゆくことが、ベストかと思う。 そうすれば聖書が求める本筋を見過ごさないで済むからだ。 この手紙によって安易に相手である伴侶を裁くのでなく、先ずは自分自身を知ることが最優先である。 ここからである。 手紙ではあるが、その意味するところは私達に対し、意見と姿勢が伴うべく応答を求めている。 だからこそ、この手紙は夫婦のスタートである結婚式で語られるべきメッセイジである。 一番素直に聞ける場所は結婚式である。 結婚式に参列する夫婦の方々にも、真新しいメッセイジとして聞かれることは非常に有意義な時である。 そして、この手紙はキリスト者以外の結婚式では用いられない。 何故なら夫婦に対して、その人生をキリストと教会へと向かわせられなければ、その結婚の儀は希薄となる。 キリストも教会のことも未知のカップルとすれば難解どころか、その意味さえも不明であるからだ。 妻たちへ、と書き始められた手紙であるが、別に「何よりも妻が先に」云々ではない。 この箇所を誤解される人は決して少なくない。 それはこの手紙の指示する順番だけを短絡的に解釈したからだ。 何よりも、先ずは夫からである。 これは聖書が語る全てにおいて言えることだ。

■石を枕に見た夢は/創世記27:46~28:22

当然であるが、創世記時代にキリスト教会は存在しなかった。 神学も律法も教会員も無いし、クリスチャンコミュニティも無かった。 人間同士が本能のままに生きていて、なんとも生々しい時代であった。 そこから伝わって来る事は、現代に生きる人間達と資質は殆ど変らないということ。 つまり文明と文化は全く異なるのに、特に3千年などという時代のギャップに関わらず、人間そのものは大差ないと思わせられてしまうのが、聖書の凄さである。 環境と文明が、文化、そして国や人種が変わっても、人間の本質的な部分では殆ど変りない。 だから聖書は今もって私達の人生に活力と夢を与えて続けていてくれる。 アブラハムとサライの夫婦、それぞれの考えも行動も異なる。 同じ主を見上げ考えていたにせよ、生きる方向と生活する価値観は微妙にずれていた。 イサクとリベカとて同様。 こちらは行動力と価値観で大きな差があった。 イサクはゆったりと柔和に生き、リベカは将来を案じ、行動が早かった。 唯一神の前で彼らは堂々と、時として主に反抗しながら生きていた。 神は、そんな彼らを大きな視野と心で見守っておられた。 「不ぞろいな林檎たち」というタイトルを昔、聞いたことがあったので、ふとそういうネーミングを思いついた。 古い英訳の聖書では「瞳」と訳すところを「林檎を愛おしむ如く、神が愛する」と表現した。 神は人間をそれほどまでに慈しんでくださっているという思いが伝わってくるのだ。 現代のキリスト者夫婦とて、どこのカップルも「不ぞろいの林檎たち」と思う。 裏がへせば、それだけ「唯一の生ける神は懐が広く深い」からと思う。 だが、神のとき至れば、二人は

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