■イエスと生きる漁師は強かった/使徒3:1~9
ガリラヤ湖の漁師であったペテロとアンデレの兄弟。
そして同じく漁師のヤコブとヨハネ。
イエスはなぜ田舎の漁師を弟子として呼ばれたのか。
彼らの何を見て召されたのか。
分からない、けれど神には神の御計画と摂理がある。
私達にせよ、プランも希望もある。
だが、摂理は持たないし、明日も分からない生き物だ。
これが徹底的に違う点。
ましてや人間は自己中心的にものごとを考える。
主は遠い未来まで見通されて、いつ御自分が何をするべきかまで知っておられる。
イエスが天に上げられてから間もなくのこと。
ペテロとヨハネは午後三時、祈るために宮に上った。
その日も「美しの門」という所に、生まれつき足の不自由な男が置かれていた。
彼は朝が来ると其処に置かれ、夕になると寝場所に運ばれた。
彼にできること、それは宮に上る参拝者の憐みに縋って幾らかの小銭を貰う為だった。
彼に出来ることは、それだけだった。
生きることの意味など考えられなかっただろう。
誰かの手によって運ばれなければ、生きられない人だった。
人々の憐みにすがることしか出来なかった。
だが、その日はいつもとはまったく違う日となった。
彼自身、そんな事が起ころうとは夢にも思わなかったであろう。
おそらく、ペテロとヨハネさえも思わなかったことであろう。
ペテロとヨハネがやってくると、いつものように二人を見上げ、施しの眼差しを送った。
彼にとって人々の目線を捉えることが恵みの始まりなのだ。
ペテロは近寄ると男の顔を見て言った。
「私たちを見なさい。」
男は何を貰えるのだろうかと期待してペテロを見つめた。
ペテロが言った、「金銀は私には無い!しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい!」
言い終わると、直ぐさまペテロは男の手を取って立たせた。
歩ける筈の無い男の手を取って。
何かが起こった。
男は躍り上がって、真っすぐに立ち、歩きだした。
そして踊ったり跳ねたりしながら、神を賛美して二人と一緒に宮へ入って行った。
あなたはこのシーンを信じるだろうか。
若しくは信じないだろうか?
クリスチャンなら当然信じておられるだろう。
クリスチャンでなければ、信じられずとも無理はない。
信じる人の中にはイエスがおられ、信じられない人にイエスはおられない。
だが、いつの日か、多くの人に信じて欲しい。
イエスを信じられるということは尋常ではないのだ。
だから、尋常な考え方や生き方をしては勿体ない。
この場面、私は42年の信仰生活の中で幾度も読み、幾度もメッセイジさせてもらった。
その度に、主は新しい力を注いで下さる。
それは「ナザレのイエス・キリストの名によって!」と叫ぶペテロの声である。
2000年後の今日であれ、ナザレのイエスの名によらなければ、私たちには何らの力もない。
単なる木偶の坊(でくのぼう)に過ぎない。
だが「イエスの名によって立つ!」のであるなら、この世に恐れる対象など無い。
それは人間の力ではない。
イエスを信じる、その御名に力があるのだ。
その御名を信じるところに、神の力が注がれる、現れるのである。
あなたにとって大事なことはイエスを信じるか、否か、でしかない。
私の力でもペテロの力でもない。
イエスを信じる信仰のゆえに、である。
人間自体、力などないどころか、ところ変われば不安、不信、恐怖と暗闇に苛まれる。
腕力があったにせよ、それだけでは限界がある。
第一サムエル記17章に登場する旧約聖書のヒーロー、ダヴィデは、現代も尚イスラエルのヒーローで有り続ける特別な存在だ。
若い日のダヴィデは羊飼いだった。
しかし、羊を襲う熊や獅子を相手に逞しく育った。
彼の武器は剣ではなく石投げ袋と石ころだった。
或る日、ゴリヤテという二メートルをはるかに超えるペリシテ人の大男が、イスラエルの神を侮辱しながらノッシノッシと進み出てきた。
イスラエル兵は皆、恐れおののいた。
だが、若いダヴィデは恐れることもなく、ましてや剣も鎧も身につけずにゴリヤテを見上げた。
ダヴィデにとって見過ごせなかったことは、彼が信じるイスラエルの神、ヤハウェをゴリヤテに侮辱されたことだった。
ダヴィデの一番の武器はヤハウェへの強い信仰だった。
主が共なれば、この戦いは主とゴリヤテの戦い、ならば必ず勝つ!
ゴリヤテは大きな剣を持ち直すとダヴィデを見下ろし、せせら笑っていた。
ダヴィデは石投げ袋に一つを入れると、頭上で幾度も振り回す。
そして放たれた石は唸りをあげ、ゴリヤテの眉間に吸い込まれるように突き刺さった。
ドゥと音を立てて倒れた大男に向かって走り寄ると、ダヴィデはゴリヤテの剣で彼の首を切り落とした。
ヤハウェを信じる少年は強かった。
興味がある方は、第一サムエル21章を読んでいただきたい。
そこには成人したダヴィデが登場する。
だが、そのダヴィデは昔の彼の比ではなかった。
なぜか?
以前とはたった一つの違い、ヤハウェ(神)への信仰が希薄になっていたのである。
21章のダヴィデは人を恐れ、とまどい、腹をすかして逃げ惑った。
嘘も言った、敵をも騙して命乞いをした。
それは彼が、彼の神に対して持っていた信仰がなくなっていたからだ。
私たちとて同様である。
イエスを信じ、イエスが伴う人生は強い。
だが、自分中心の人生は人を恐れ、不安は尽きない。
頭で信じていても、現実の自分にイエスがいなければ力は来ない。
信仰は理想の人生を構築する為のものではなく、人生におけるチャレンジを掴みだすものだ。
イエスがいるか、いないかでは天と地ほどの違いがある。
イエスが力、その御名が力であるから、イエスを信じる人は強く生きられる。