■ キリスト者の神髄/ピレモンへの手紙

二千年前、特に地中海沿岸の国々やローマ帝国などには多くの奴隷にされた人々がいた。 奴隷なくしては暮らせない時代であったし、国によっては人口の倍近くいたらしい。 奴隷とは社会的通念から言えば、人でありながら、人ではなかった。 つまり人間としての尊厳も権利も奪われた人たちだった。 この人間世界で圧倒的にひどい差別であったが、当時の聖書はその制度を非難していない。 パウロとて制度自体の何らも否定していなかった。 それは、あって当然の社会のシステムだったからである。 だが、彼らの命の灯はいつ消えてもおかしくなく、紙くず同然でもあった。 キリスト教が入った国々で最も違和感をもったのは、奴隷の主人であったかと思う。 キリストの教えは人間に対する差別が有ってはならないというものだった。 では、主人がクリスチャンになり、奴隷がクリスチャンになると、どんな景色が見られるのか? 何故ならこの主従関係は、神の子供達という兄弟関係となる。 彼らが教えに忠実に生きたとしたら、制度は有っても以前とはまったく異なる人間関係が生まれた。 キリストに従うように「しもべ」は主人に従い、主人はキリストが愛されたように奴隷を愛するからだ。 そこには制度不要論は無くとも、全く別の世界を垣間見たであろう。 ピレモンという人は財産にも人間性も豊かで、他者を愛しキリストを愛した人だった。 パウロによって新生に導かれたが、彼は以前にも増して人々を愛した。 彼がキリストの集会に参加する時、彼に仕えていたオネシモという奴隷も一緒だった。 当然ながらオネシモの顔は、他のクリスチャン達に覚えられ

■ 子供たちをイエスのもとへ/マルコ10:13~16

ある日、イエスのところに大人たちが幼子を連れて来た。 それを見たイエスの弟子達が彼らを叱った。 おそらくこう言ったのだろうか。 「ここはお前たちの来る場所ではない!」 イエスはそれをご覧になり弟子達に憤っていわれた。 「子供たちをわたしのところに連れて来させなさい。止めてはいけません。神の国はこのような小さい者達のものです。」 38年前の四月初めの日曜日、クリスチャンになって一年程の私は教会学校のクラスを任された。 三年生、四年生の子供たちが30人位だった。 何を、どうしたらいいのかも知らなかった。 その日のカリキュラムは、「日本人が敬う八百万(やおろず)の神々」がテーマだった。 そしてその朝、生涯取り組むべきチャレンジを示されたと確信した。 文字通り、数えきれない多神教の偶像がひしめく環境に、子供たちは置かれ、そして私は育ったのである。 イエスは弟子達が子供を叱るのを見て、憤ったとある。 イエスのところへ連れて行こうとしないことはイエスに怒られる場面である。 それは彼らを押し止めているからだ。 こどもは自分で判断できない。 大人は子供に魂が救われるチャンスを与えるべきだ。 ある本に書いてあった。 サーカスの像は常にあちらこちらの町や村を旅している。 彼らは動物園に有るような頑丈な像の檻とか杭を持ち運んでいるわけではない。 あくまで、ごくシンプルな杭である。 なぜ像はそれを抜いて逃げ出さないのか。 像の力をもってすれば、いとも簡単な筈なのに・・ サーカスの像は小さい時から躾けられてきた。 本当は簡単なのに、杭とは絶対に動か

■ この道の他に道なし/使徒22:3~10

50年前の夏、当時はカニ族と言われるスタイルで初めての北海道旅行に行った。 本州は列車の長旅、青函連絡船で津軽海峡を渡り、鈍行で太平洋岸を上った。 目的は大雪山に登ること。 大沼でボートを漕ぎ、駒ケ岳を仰いだ。 最近起こった少年の失踪事件で、急に当時を思い出した。 念願の大雪山は霧にまかれ、仕方なく頂上をあきらめた。 せっかくここまで来たのにという思いはあったが、勇気を出して諦めた。 キリストを見上げ、キリストをめざし、キリストを追う人生だって、時として霧にまかれることがある。 だから新聞に掲載された宮沢賢治先生の言葉で慰められた。 「永久の未完成、これ完成である。」 なるほど・・・と思った。 キリスト者の旅は天まで続く長い道行だ。 パウロは生粋のユダヤ人、生まれはキリキヤ海辺の町タルソ、育ちはエルサレム、ガマリエルに師事し、律法を教えられガチガチのユダヤ教徒パリサイ派であった。 だからこそ、新興宗教としか思えない「キリストの一派」は決して見過ごすことなど出来なかった。 男でも女でも見つけては牢にぶち込み、死にまで至らせた。 キリストは、そんなパウロを福音伝道者の先兵として捉え徴用した。 パウロの前身前歴を考えると有り得ない登用であったが、神の適材適所は間違っていなかった。 それどころか、パウロ以外は考えられない人選だった。 残念ながら、このユニーク性と柔軟性と未来を見分ける目など人間は持っていない。 人間は今と過去を見る。 神は未来と今を見る。 人は可能性よりも実績を見る。 神は実績よりも未来性を見る。 「この凄さに舌を巻

■ 愚(ぐ)なるもの 汝の名はひとなり

他人から「愚か者」と言われて、笑ってやり過ごせる人など、まず居ないだろう。 しかし、自分から「私は愚かな者です。」とは言えるだろう。 その差は何なのか? 要するに他人から言われることと、自分から言うことの違いだけである。 「初めに神が天と地を造られた。」 創世記のこの言葉に対して「はい」と言えるか、「ノー」と言うかで、キリスト者か否かが分かる・・・・。 果たして、そうだろうか? 「イエスは私の罪を背負って、私の為に死んで下さいました。」に関してYESかNOでキリスト者を見分けるのである。 これだけである。 「愚(ぐ)なるもの、汝は人なり」 これは仮に、神が人間を見られて言うとしたらという仮定で私が想像した所見である。 (すみません。) その理由、 1、被造物世界を破壊し尽したのは人間である。 2、人間は同胞である人間を殺戮した。 間違っているだろうか? 以上は信仰の有る無しに関わらず、歴史を振り返って言ったものである。 3、唯一、まことの生ける主、キリストを二千年間無視し続けた。 4、キリスト者といえども、人はやはり聖霊の支配を拒むだろう。 以上はクリスチャンに対して(自分を含め)、感じたことである。 私達は聖書、つまり神の言葉を学ぶ。 だが、この学びは学識のためではなく、人間が生ける神キリストに出会うためである。 キリストに救われ、キリストに従うために学ぶのである。 こんなことは当然、と思って取り組んでいるのだが、結果はなぜか、いつもチグハグになってしまうのはなんでだろう? それは人間が自己中心的生き物だからだ。 「

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