■宗教ではない、信仰である/1コリント10:14~22

『あなたは宗教を好みますか。それとも信仰を好みますか。』 一般的に世の中はキリスト教とて宗教のひとつと考える。 しかし、私にとってキリスト教は「信仰以外のなにもの」でもない。 確かにクリスチャンは毎週教会に集う。 教会としての集合、もしくは協力活動がある。 そして共に礼拝し、他者との交流、そこに自分の成長を確認できる利点は大いにある。 牧師が言うのも変だが、教会自体は神ではない。 確かに教会は「生けるキリストの御身体」という位置は保持されるだろう。 だが冷静に見れば、教会はイエスにあって聖徒の群れでありつつも「赦された罪びと」の集まりである。 だから、教会が心から「教会の頭(かしら)はキリスト」という自覚と認識の共通性を忘れてはならない。 そして、その中において覚える自意識以上に、見上げる主キリストこそが信仰の対象であることを確信できるなら、それは既に「信仰」という次元で生きていると思う。 つまり、集団の中にいることが第一目的ではなく、何処にいようと自分が見上げる方は生ける神、唯一のイエス・キリストであるという一対一の構図が第一目的となる。 それは周囲があって自分があるのではなく、キリストありて我がある。 我、生きるところ、いかなる時もキリストは我とあり、我は主とある。 此処に到るとすれば、他者に左右されることはない。 文字通り、キリストと私の信仰の世界である。 私達ではない、私と主である。 但し、私たちの信仰と人間性の成長は、マタイ16:18で「この岩の上にわたしの教会を建てる」といわれた教会に於いて絶対不可欠な存在である。 昨年出会った「樋口信平先生」が書かれたデボーション

■知識は人を高ぶらせ/第一コリント6/12~20

知識は人を高ぶらせ、愛(アガペー)は人を建てる、実にアーメンである。 アーメン以外の何ものも無い。 日本語聖書の一番大きな過ちは、三つの愛の意味を使い分けるギリシャ語をうまく訳さなかったことである。 ギリシャ語にはエロスの愛、さまざまな人間関係を形容するフィリオと無償無限のアガペーがある。 これらを一括りにして「愛」と位置付けても何が何だかわからない。 一番大切なアガペーということばを一般用語の様に訳すのは、神に対して非常に失礼な仕事と思う。 当然ながら英語のLOVEとて同様である。 聖書を世界の人々に読んで理解してもらうには、訳せない言葉は原語に帰すべきと思う。 例えばツァラートと現したのは「ハンセン病、他の皮膚病等」を意味する。 特に聖書の世界を忠実に語るべく数限りなく語られ。使われたのが愛(アガペー)という言葉だ。 世界中の読者が、聖書で「アガペー」に出会う度に主なる神、主キリストを想うことは素晴らしいことだと思う。 イエスが地上に降りられたのは、アガペーの象徴、アガペーの出現、人類アガペーを体験するためであったと言っても過言ではない。 第一コリント6:12。 「私にはすべてのこと許されたことです。しかし、すべてのことが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」 素晴らしい!の一語に尽きる。 パウロの言葉をもって、私は自分の自由と不自由を知った次第である。 あなたはいかがだろう。 私が考えた自由とは、何でも出来る、何でも言えることだと思っていたが、実はそうではなかったのだ。 昔、クリスチャンになる前の自

契約の血/マタイ26:20~39

「荒野の泉」という本から抜粋。 ある黒人男性が当時毎晩行われた天幕伝道集会に参加したところ、主は彼の内に働かれ、 集会に行く度毎に、「今からの人生と私自身を主にお捧げします。」との決意をした。 しかし、集会から帰る頃になると、決まって悪魔がやってきて囁いたそうだ。 「どうせ、お前の決心はいつだってその場限りのものだろうが・・」 男性は毎晩、その声に打ち負かされた。 遂にある晩、彼は杭とハンマーを持って集会に臨んだ。 そして献身の祈りをした直後、その場所にハンマーを打ち上げると、深く杭を打ち込んだ。 帰り道、悪魔はいつものように彼に臨んで言った、「お前は今夜も決心したようだが・・・」 だが、悪魔が語り始めた瞬間、男性は集会場所にとって返して打ち込んだ杭を指さして叫んだ。 「サタンよ!いいか、この杭を見ろ。これこそ、私が永遠に主イエスを受け入れ、従うと誓った証しだ!」 その晩を最後に悪魔は二度と男性を訪れることはなかった。 私たちに一番足りないのは、誰にも見える杭とハンマーかもしれない。 心の決心は時間と共に淡くなって過ぎ去ることがある。 紙に書き記すとか、何か見える物を証拠の印として残すが良いだろう。 私はデボーション用に36年前から大判の聖書を使って来た。 何カ所にも書き込んだ文字はあるが、赤ペンでしっかり残っているのは、主に従う決心をした際の日時だった。 主のことばはいつだって其処に生きていたし、赤い書き込みは変わらない。 やがてそれは、私の心へと場所を変えた。 最後の晩餐の夜、イエスの「御からだと血潮」は「パンと葡萄の水」に象徴され、12名の弟子たちに配られた。 そこには裏

■原罪/創世記2:23~3:13

『見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く』 クリスチャンになって何十年も経って悟るのかもしれない。 上っ面で理解しようとも、深いところに落とすには、やはり年齢を重ねるのが意味があるかと思う。 失敗したり、他人を見て学んだり、葛藤の足跡を振り返って悟ったり、人生に横たわる時間の尊さをつくづく思い知らされる。 若い日には浅瀬で生き、年を重ねたら深みで生きるがよい、と思いつつ中々思った様には生きられないものだ。 確かに見えるものより、見えないものには限りない価値と意味が潜んでいる。 創世記、主がアダムに相応しい助け手を与えられた。 アダムはエバを見て感動し、多いに喜び叫ぶ。 そして創造主を賛美した。 『これこそ。今や、私の骨からの骨。私の肉からの肉。 これを女と名付けよう。』 アダムは人生の伴侶を得た。 ここに『結婚の定義』がある。 『男と女はその父母を離れ、二人は結び合い一体となる。』 これが結婚だ。 このとき、二人は裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。 人間は罪が無かったからだ。 やがて蛇が二人に忍び寄る。 蛇とて主の被造物である。 蛇は実に狡猾だった。 (但し、狡猾と賢いは違う。狡猾は悪賢い。こすい。賢いは才知、思慮、分別が際立っている。) 二人が食べてはいけない木は「善悪の知識の実」だった。 それは園の中でたった一本だけだった。 アダムとエバは、その木を見ても見過ごすことが出来た。 それは二人にとって余りに危険であったので、無視し続けられた。 それ自体、二人は主によって守られていることだった。 主が二人に与えた「唯一の決まりごと」がその木であった。 エデ

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