■先は読めても神は読めず/マタイ21:23~32

或る日、イエスが宮で人々に教えておられた時のこと。 祭司長と民の長老たちがイエスのそばに来て聞いた。 「あなたは何の権威によって、このようなことをしておられるのか? いったい誰がその権威を授けたのか?」 イエスは言われた。 「では、わたしもあなたがたに尋ねよう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのことをしているのか話しましょう。 バプテスマのヨハネは何処から来たのか?天からですか?人からですか?」 ユダヤ人達は相談を始めた。 「もし天からと言うと、ではなぜ彼を信じなかったのかと言われるだろう。 しかし、人からと言えば、群衆が怖い。彼らはみなヨハネを預言者と認めているのだから。」 そしてイエスに答えた。 「わかりません。」 彼等は先を読んだ積りだったが、結局結論は出せなかった。 目の前に真理のお方がいても、イエス自身を読もうとしなかった。 実に、神とは読む対象ではなく、信じる対象なのである。 イエスに心閉ざす者は、昔も今も闇の中を手探りして生きるしかない。 そしてイエスは言われた、「では、わたしも何の権威によって、これらのことをしているのか、あなたがたに話すまい。」 人間は各も真理を尋ね求めるものでありながら、イエスに真理を見ようとしない。 昔のユダヤ人もそうだったし、現代の日本人もそうだった。 オウム真理教の滑稽なまでに誤った教えのどこに真理を見たのか? あそこには初めから真理など一粒さえなかった。 あったのは、あり得ない空想と、己を神とした男の夢とこじつけだった。 何故二千年もの間、世界の人々に求められ、問われ続けてきた聖書に、そしてキリストに尋ね

■チャレンジ/ロマ書4:16~25

チャレンジ(挑戦)とは、「特に困難なこと、未体験のことに取り組む」という意味である。 つまり慣れきってしまったことや、過去に体験していることに対しては、チャレンジと言うべきではないのであろう。 平坦に「私は神を信じています。」と言う人ならどこにでもいるであろう。 では聖書ローマ4章17節をあなたは本当に信じておられるだろうか? 『神は無から有を呼び出す方』 これって人間には到底出来ないことである。 マジックショーは別にして、人間は無から有を呼び出すことは出来ない。 『神は無から有を呼び出す方』とは、神は1000%不可能でも可能を呼び出すということだ。 更に仮にその意味を熟知した上で、そういう神を信じていますと、どれだけの人が言えるだろう。 更に、絶望と困難の崖っぷちで「はい、私はこの神を信じます。」と言い切ることは・・・ 聖書は更にいう。「アブラハムは望みえない時に、望みを抱いて神を信じた。」 神は「そういう方」であり、アブラハムは「その神」を信じたのである。 このことこそ、クリスチャンに課せられたチャレンジであると思う。 余りにも安易に「私は神を信じていますから。」という世界に身をおいていないだろうか? アブラハムは世界で最初にチャレンジを受けた人であり、神に答えた人である。 彼は「いっとき」のチャレンジでなく、長い時間、個人的な問題で、人生を通して、神からチャレンジを受けた人である。 そして彼の人生が集大成に至ったとき、最大のチャレンジがやってきたのである。 彼ほど「神を体験した人」はいない。 毎日、毎晩、彼の脳裏から「生ける神」が消えたことはなかった。 そして彼が神から知

■母たちの軋轢/創世記16:1~15

クリスチャン・ホームと言うと、先ず両親がクリスチャンであることだろう。 やがて子供達も教会に行き、キリストを信じると本来のクリスチャン・ホームとなる。 旧約はキリストが来られる前であるから、せいぜい「神を信じる家族」とでも言おうか。 お父さんはアブラム、お母さんはサライ、二人には今なお子供が生まれなかった。 お父さんは神の約束を信じていた。 お母さんはと言うと、どれくらい信じていたかは私には分からない。 取り敢えず夫と共に行動し、生活を営んでいた。 お手伝いはエジプトから連れて来ていたハガルという若い女性だった。 サライのいう事は何でもハイハイと聞いて働く女性だった。 アブラムもサライも子供を欲しかったが、特にサライは母と呼ばれない自分が悲しかった。 「子は神からの授かりもの」という意識があったので、子供が出来ない彼女は神に対してじれったい思いがあった。 或る時、サライは意を決し夫に打ち明けた。 「ねぇあなた、ハガルによって子供を創ってくださいませんか。そうすれば、その子によって私は母と呼ばれるから。」 アブラムはサライの気持ちをかねてより感じていたこともあり、深く考えることもなくハガルと寝た。 数か月後、ハガルのお腹は大きくなった。 するとハガルは自分がアブラハムの妻になったかのような錯覚をし、女主人に対し高慢な態度を取り始めた。 これに怒ったのはサライである。 夫の前に怒りをぶちまけた。「あなた、見ましたよね。ハガルの生意気な態度を。私は赦しませんよ。あの娘は単なる手伝い女なのに、私を見下げたのです。神さまは何と思われるのでしょうね!」 取りつくしまもないサライの怒りの矛先

■いつか誰かも歩んだ道/創世記13:1~11

神はご自身の計画を達成するために地上の人々を選ばれる。 例えばイエスを生まれさせるためにヨセフとマリヤという特別な二人を必要とされた。 神の条件は幾つもあったから特別と思った次第である。 先ず、イエスの父となるヨセフはダビデ王の末裔であること。 彼はヤハウェなる神を信じる人であり、真摯で正しく思いやりのある人。 一方マリヤは神を畏れ、清純な処女であること。 二人はいいなずけ関係、つまり婚約中であること。 そしてどんな事態が訪れようと、最終的には神の御声に従う者であること。 この様に幾重もの条件をクリヤーする二人こそ、神が長い間待っておられたカップルだった。 人類の祝福の父、アブラハムはどうであったろうか。 神の目に適った人であったと言うより、召しの中で神が彼を変えられたと思える人だった。 アブラハムは普通の人であって、ある意味普通の人ではなかった。 彼が普通でない理由は、彼が神の前から絶対逃げない人だったということと、人生のどこかで神の側に鋭く舵をきることを決断することだった。 アブラハムは年を経ても、後継ぎが出来なくてもじっと諦めずに待った。 自分の身体が死んだも同然であったにせよ、彼ははるか彼方に希望の灯を持ち続けた。 アブラハムという人は、時間を掛け神によって鍛えられ、神によって練られた結果の器だったと思う。 初めてカナンの地に足を踏み入れたアブラハムは何故か落ち着かなかった。 「この地をあなたにあげよう」と神に言われたのに何を考えたのか、更に南へと歩を進め、遂にはエジプトへ行った。 そこは「この世」を象徴する、まさに人間にとって魅力満載の誘惑的な都市だった。 カナンの渇

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