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■終わりがあって始まりがある/マルコ12:13~27

この時期、アメリカの元NBAスター選手だったコービー・ブライアント氏と13歳の娘さん、他5人が乗ったヘリコプター墜落事故で亡くなったことが非常に辛い。

不慮の事故であった。

NBAバスケット界のスーパーヒーロー、そしてその父の跡を追ってバスケットに人生を賭けようとスタートしたばかりの若い魂。

突然訪れた訃報に対する心の置き場所をファンは知らない。

探しようが無い。

仮に、発生した濃霧が原因としても、死へと旅立った運命の意味を人は知らない。

病気などにより失われてゆくティーンエイジの魂を思うとやはり辛い。

「このひと」が生まれた意味は何だったのか、と考えてしまう。

その人が死に至った人生のプロセスではなく、突然襲って来た死の理由を知りたい。

知りたい理由が分からないから辛い。

そのとき、人は自分の中で突然大きな壁にぶち当る。

運命という壁。

その壁を気持ちよく乗り越えた人などいないだろう。

確かに聖書も「運命そのこと」に関しては、明確に答えていないかも知れない。

神はイエスを通して、様々な形で多くの「啓示」をされたのに・・・。

しかし、イエスによって悟るようにと語られた聖句がある。

それは「壁」を超える為のスキルではなく、壁の意味を理解する信仰を持つように、である。

ヨハネ9章3節に書いてある。

「彼が盲目に生まれついたのは、神のわざがこの人に現れるためです。」

端的であるが、運命という「非常に厚くて高い壁」の意味を悟ることが出来るかもしれない。

子供の頃を思い出す。

小学校を卒業すると、中学へ入学し、中学を卒業すると高校へ入学する。

つまり卒業があって入学が来る。

幾度も繰り返し、人は世に出てゆく。

クリスチャンになった、ということは入学したのである。

けれど、この世を卒業したわけではない。

つまり、「世の子供」と「神の子供」という次元の両方に私たちは立脚している。

パウロという人が「ガラテヤびとへの手紙」を書くまで、救われて何年経った後かはわからない。

だが2章20節で彼はこう語る。

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです。」

パウロは言う、結局キリストの十字架は私のものでもあったのだ、と言った。

私など何十年経っても、パウロの言葉を深く考えるまで、自分の十字架と思えなかった。

そう、あの時点でパウロは間違いなく「世」を卒業したのである。

多分、私たちは明白に卒業して来なかったかも知れない。

いきなりの入学で混乱して来たままだったのかも知れない。

あれこそ頭ではなく、パウロが心と腹で信仰を考えた瞬間であり結果だったと思う。

私は常々言う。

『信仰とは頭でやる(考える)ものではなく、腹でするものだ。』

頭は知識の宝庫であり、考える、想像する、評価する、文字通り人として生きるための集積回路である。

信仰を考えるには既に相当の世的なものが詰まっている場所。

情報を選別するにも、キリスト教的な情報はウイークデイには出て来にくい。

そのとき、腹でイエスを考え、救いを思い出し、主の力を考えよう。

腹だ!

すべての情報をやりとりする頭を使うよりも、真っ直ぐで愚直な思いがする。

そして瞬時に、脳内ではキリスト教的情報が整理を始めるのである。

イエスさまから叱責されたサドカイびと達がいた。

彼らはパリサイびとと違って「死者に復活はなし」と考えていた。

そこで、ある日、イエスに質問した。

『或る家庭、長男が結婚したが子供を残さず嫁を残して早死にした。

すると長男の子供を産むために、次男が長男の嫁を受け継ぐ。

そして次男も早死にした。

そうやって七人の兄弟は子供を残さずに死んでしまった。』

サドカイびとがイエスに問うた。

「先生、すると復活の際、彼等がよみがえるとき、その女は誰の妻なのですか?」

イエスは答えられた。

「そんな思い違いをしているのは、神も神の力も知らないからではないですか。

人がよみがえるときには、娶ることも嫁ぐこともなく、天のみ使いの様です。」

私たちとてサドカイびとと「似た者同士」かもしれない。

私達はクリスチャンになったけれど、暮らすのは「この世」である。

この世に生まれ、この世で生育され、この世で学び、世という社会でズッポリ生きてきた。

つまり、「神も神の力も知らない」生活体系だとすると、サドカイ半分、クリスチャン半分で生きている。

だが素晴らしいことに、「まことの神を知る方法」は、一見否定的と思える日本社会とその歴史である。

八百万(ヤオロズ)の神々を作って来た、この日本である。

偶像礼拝満載のこの世だからこそ、明確に異なるキリスト教、イエス、メシヤを知ることが容易なのである。

このような環境に感謝しよう。

キリスト者にとって、最悪の環境と思っていたことを悔い改めよう。

この世こそが、イエスを知るには最高であるのだ。

早い話が、「世びとがすることをしない、世びとがしないことをする。」が目安になる。

単なるあまのじゃくではない。

何よりも「聖書とイエスに対しては、おんぶに抱っこ」が一番だ。

これほどにシンプルで分かりやすい糸口があるのに、それをやらない口実があるだろうか。

そこでしか「神と神の力を知ることは出来ない。」のにである。

私たちの邪魔をする対象など何一つないのを知っておられるだろうか。

サタンでさえも邪魔などできない!

もし、である。

仮に有るとすれば、それこそ私達のプライドくらいではないだろうか。

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