■ O Happy Day すべてはあの朝から始まった

イエスは黄泉がえられた。 福音書の終盤が語る状況から行くと、これが一番相応しい「言い方」かも知れない。 イエスは死者として黄泉にまで降りられた。 そして新しい御体をもって現れたのである。 確かに湖の岸辺、弟子の目の前で焼いた魚を食べられたが、以前持っておられた、いわゆる人そのものの体ではなく、神の栄光宿るお体であった。 イエスが十字架で死なれたとき、それまでワイワイガヤガヤとして十字架を見上げていた群衆も警護のローマの兵士、隊長も直前までとは全く違う反応を示した。 ローマの隊長は神を誉めたたえて言った。「この方は本当に正しい方であった。」 群衆は後悔するあまり胸を叩いて悲しんだ、とある。 だが、すべては終わった。 イエスは死んだのである。 イエスを慕う婦人たちは遠くからこの風景を眺めながら、イエスのご遺体が葬られる場所を見守った。 70人議会の議員でありながら、イエスに対し好感をもっていたアリマタヤのヨセフは「思い切って(周囲の目と口を投げ捨てて)ピラトにイエスの遺体引き取りを申し出て、自分がかねてから持っていた新しい墓にイエスを葬った。 景色はこれまでと変わらなかった。 この世の常識と道理を結局イエスは打ち破れなかった。 完璧なまでの敗北である。 そして安息日が始まった。 すさまじいリンチと虐待、十字架刑はイエスを苦しめ殺し、人間世界は神のひとり子をこの世から抹殺した。 確かに抹殺した筈だった。 そして金曜、土曜、三日目の日曜朝、人類史上、未曽有の出来事が起ころうとしていた。 女達は週の初めの早朝、イエスの死体に塗るべく、香料と香油を

■ 私が神にしたこと

あなたは信じるだろうか? 聖書は現実の出来事を語っていることを。 あなたは信じているだろうか? 聖書は生けるまことの唯一の神のことばであることを。 あなたは本当に信じているだろうか? イエスは神であることを。 人生はイエスご自身と如何に関わりつつ生きるかだということを。 聖書に対し、人それぞれの考え方や解釈の仕方がある。 持論を信仰にまぶして生きるあ方もおられるだろう。 大体は信じるが、馬鹿げた記事だけはやめてほしい、という意見もあるだろう。 様々な解釈と意見があろうとも、結果として神の前において、その人の責任はその人が取るのである。 何よりも生ける主と向き合っての人生こそ、潤いあるキリスト者になると思う。 ローマの総督ピラトは、内心ではイエスを殺すことに反対だった。 しかし、ユダヤ人の勢いとイエスへの殺意の強さを感じたとき、思いとどめる方策は持ち合わせていなかった。 場合によって暴動さえ起りかねない圧力を感じたとき、ピラトは自らの職を失う危機感をもった。 イエスの身柄がピラトからローマ兵に移ると、兵士たちはイエスを鞭打ち、緋色の着物を着せ、冠りをかぶせた。 緋色は高貴な人を象徴の意味であったが、冠りはいばらで出来ていた。 いばらの棘はイエスの頭と額に容赦なく食い込んだ。 更にイエスに唾を吐き、葦を王の笏に見立てて持たせた。 彼らはイエスを「ユダヤ人の王様」と言ってからかい、おどけて見せた。 イエスは自らがはりつけられる十字架を背負わされた。 刑場につくとイエスは十字架の上に寝かされ、太い釘が両手両足に打ちこまれ、十字架ごと数人の

■ 世界で最初のキリストの教会

2千年前、世界で初めてのキリスト教会が生まれた。 アジア大陸の東の端っこ、地中海にずり落ちそうな極地、中東で昔から他国に責められ蹂躙されたところ。 しかし、歴史と民族の哀愁が漂う地であり、気候も景色も地上の世界を圧縮凝縮したかのような不思議で美しいところ、そのカナンの北部ガリラヤ地方に生まれた小さな群れ。 当時、いったい誰ひとり想像しなかったこと。 遠い未来、この群れが世界の民に福音を配する集団になろうとは。 一番初めのキリスト教会は、「すべてにおいて、その日暮らし」だった。 毎日は驚きの連続であり、感動はやまず、地上の現実感など吹っ飛んでいた。 見たことも聞いたことも無い出来事は止まるところを知らなかった。 弟子たちは家に帰ることも仕事に帰ることも忘れ、リーダーのイエスに追従した。 イエスはとても牧師などという枠に収まりきれない方だった。 弟子たちからすれば、イエスの行動は破天荒そのものであった。 思い立ったら何処へでも、何でも、いつでも行動する人だった。 イエスの願い、思い、言葉、行動を支えたのは、弟子や教会員ではなかった。 天の父なる神、創造主だけであった。 それに明日など心配しない教会であった。 する必要も余裕もなかった。 だから、今が、今日が、彼らの視界であった。 夢や期待は弟子の幾人かが僅かに持っていただけだった。 凡そどう考えてみても現代のキリスト教会とは似ても似つかぬ群れだった。 だが、幾つかの点で現代のキリスト教会に共通している部分があった。 それは皮肉にもネガティブなものであった。 背教、裏切り、躓き、否定、仲

■ キリストの檄

祈りはどうしても自分中心になり易い。 当然ではあるが、事をなして下さるのは主であるから、主である神を中心にした祈りが大切である。 事をなされる方法も仕方も、主にお任せすべきである。 それが「神中心」の祈りであり、私たちの心である。 そしてそのような祈りは神の可能性に立ったものになる。 人には限界があり、狭くて小さくて偏向的である。 しかし、主の可能性は自由で無限であるから、策も方法も縦横無尽である。 それを人間が持てと言っても無理であるが、祈る願いに関しては注文などつけるべきではない。 要するに端的に結果を求めればよいのではないか、と思う。 「主よ、あなたがこの事に関してどのようになさるか、どこから始められるか分かりません。ですから、すべてあなたの方法にお任せします。あなたに委ねて待ちます。」 この祈りのほうが主を信頼して任せていると思った。 バプテスマのヨハネが獄に捕えられたとき、ヨハネは彼の弟子たちをイエスの元に遣わし、このように言わせた。 「おいでになる筈の方は、あなたですか?それとも私たちは別の方を待つべきでしょうか?」 果たしてヨハネはイエスに対し、疑心暗鬼に陥ったのか? そこでBPのヨハネの思いを想像した。 ヨハネはこの世に正義を示し、力をもって悪を除き、人々を神に立ち返らせる世直しの旗手としてのメシヤをイエスに意識していたのかも知れない。 しかし待てども暮らせども、イエスはヨハネが考えたメシヤらしい行動に移らない。 自分は囚われの身となっているのに、肝心のイエスは何を考えておられるのか・・・・ イエスはヨハネの弟子にこう

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