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ルカ23:46~24:8
- 2016年3月27日
■ O Happy Day すべてはあの朝から始まった
イエスは黄泉がえられた。
福音書の終盤が語る状況から行くと、これが一番相応しい「言い方」かも知れない。
イエスは死者として黄泉にまで降りられた。
そして新しい御体をもって現れたのである。
確かに湖の岸辺、弟子の目の前で焼いた魚を食べられたが、以前持っておられた、いわゆる人そのものの体ではなく、神の栄光宿るお体であった。
イエスが十字架で死なれたとき、それまでワイワイガヤガヤとして十字架を見上げていた群衆も警護のローマの兵士、隊長も直前までとは全く違う反応を示した。
ローマの隊長は神を誉めたたえて言った。「この方は本当に正しい方であった。」
群衆は後悔するあまり胸を叩いて悲しんだ、とある。
だが、すべては終わった。
イエスは死んだのである。
イエスを慕う婦人たちは遠くからこの風景を眺めながら、イエスのご遺体が葬られる場所を見守った。
70人議会の議員でありながら、イエスに対し好感をもっていたアリマタヤのヨセフは「思い切って(周囲の目と口を投げ捨てて)ピラトにイエスの遺体引き取りを申し出て、自分がかねてから持っていた新しい墓に
マタイ27:22~50
- 2016年3月20日
■ 私が神にしたこと
あなたは信じるだろうか?
聖書は現実の出来事を語っていることを。
あなたは信じているだろうか?
聖書は生けるまことの唯一の神のことばであることを。
あなたは本当に信じているだろうか?
イエスは神であることを。
人生はイエスご自身と如何に関わりつつ生きるかだということを。
聖書に対し、人それぞれの考え方や解釈の仕方がある。
持論を信仰にまぶして生きるあ方もおられるだろう。
大体は信じるが、馬鹿げた記事だけはやめてほしい、という意見もあるだろう。
様々な解釈と意見があろうとも、結果として神の前において、その人の責任はその人が取るのである。
何よりも生ける主と向き合っての人生こそ、潤いあるキリスト者になると思う。
ローマの総督ピラトは、内心ではイエスを殺すことに反対だった。
しかし、ユダヤ人の勢いとイエスへの殺意の強さを感じたとき、思いとどめる方策は持ち合わせていなかった。
場合によって暴動さえ起りかねない圧力を感じたとき、ピラトは自らの職を失う危機感をもった。
イエスの身柄がピラトからローマ兵に移ると、兵士たちはイ
マルコ14:17~36
- 2016年3月13日
■ 世界で最初のキリストの教会
2千年前、世界で初めてのキリスト教会が生まれた。
アジア大陸の東の端っこ、地中海にずり落ちそうな極地、中東で昔から他国に責められ蹂躙されたところ。
しかし、歴史と民族の哀愁が漂う地であり、気候も景色も地上の世界を圧縮凝縮したかのような不思議で美しいところ、そのカナンの北部ガリラヤ地方に生まれた小さな群れ。
当時、いったい誰ひとり想像しなかったこと。
遠い未来、この群れが世界の民に福音を配する集団になろうとは。
一番初めのキリスト教会は、「すべてにおいて、その日暮らし」だった。
毎日は驚きの連続であり、感動はやまず、地上の現実感など吹っ飛んでいた。
見たことも聞いたことも無い出来事は止まるところを知らなかった。
弟子たちは家に帰ることも仕事に帰ることも忘れ、リーダーのイエスに追従した。
イエスはとても牧師などという枠に収まりきれない方だった。
弟子たちからすれば、イエスの行動は破天荒そのものであった。
思い立ったら何処へでも、何でも、いつでも行動する人だった。
イエスの願い、思い、言葉、行動を支えたのは、弟子や教会員では
マタイ11:1~10
- 2016年3月6日
■ キリストの檄
祈りはどうしても自分中心になり易い。
当然ではあるが、事をなして下さるのは主であるから、主である神を中心にした祈りが大切である。
事をなされる方法も仕方も、主にお任せすべきである。
それが「神中心」の祈りであり、私たちの心である。
そしてそのような祈りは神の可能性に立ったものになる。
人には限界があり、狭くて小さくて偏向的である。
しかし、主の可能性は自由で無限であるから、策も方法も縦横無尽である。
それを人間が持てと言っても無理であるが、祈る願いに関しては注文などつけるべきではない。
要するに端的に結果を求めればよいのではないか、と思う。
「主よ、あなたがこの事に関してどのようになさるか、どこから始められるか分かりません。ですから、すべてあなたの方法にお任せします。あなたに委ねて待ちます。」
この祈りのほうが主を信頼して任せていると思った。
バプテスマのヨハネが獄に捕えられたとき、ヨハネは彼の弟子たちをイエスの元に遣わし、このように言わせた。
「おいでになる筈の方は、あなたですか?それとも私たちは別の方を待つべきでし