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新約聖書/使徒の働き
- 2017年6月18日
■私たちを見なさい/使徒3:1~16
イエスが伝道を開始された初期の頃、初めてペテロに出会われた瞬間、彼の目をじっと見て言われた。 「ヨハネの子、シモン、わたしはあなたをペテロ(岩)と呼ぶ。」 岩は何年経っても岩であって、砂ではない。 イエスはペテロの未来人間性像と、その内面を見通されたのである。 確かに初期の岩(ペテロ)は何とも弱かった。 強いのは人間的な面だけだった。 しかし、イエスは彼の未来の人間性と信仰を見ておられた。 ペテロは早とちりで、そそっかしい部分があり、舞い上がる点もあったが、決して嘘はつかなかった。 つまり二枚舌ではなかった。 一枚岩だったのである。 やがて集まった12弟子の筆頭はやはりペテロだった。 いつの頃からか彼はイエスに対し、自らにおいて忠誠を誓っていた。 愛すべきペテロ、あなたこそメシヤなるキリストにぞっこん惚れられた、弟子の中の弟子である。 何かにつけ、主はペテロに一目置かれた。 それはペテロの責任感、裏表のないリーダー性を見ておられたからか。 主は同じように今の私達だけでなく、私達の将来像を見ていてくださる。 神を信じることにおいて動じない、イエスと
新約聖書 コロサイ人への手紙
- 2017年6月11日
■死ぬも生きるもキリストと/コロサイ3:1~10
私は自由です、とは何をもって自由と言うのだろう? 何でも出来る、何でも言える、遊ぶことも楽しむことも何だって。 昔は、これが自由だと思っていた。 しかし、聖書において真の自由を学んだ。 そして理解した。 あれは自由ではなく、端に自由を取り違えた罪の結果であったと。 勇気とは、恐れず前に進み、弱気などしまいこみ、命さえ賭けて戦う。 と、昔は思っていた。 しかし、神の前においては違っていた。 真の勇気とは、先ずキリストに導きをゆだね、神の前にへりくだって生きることだと。 クリスチャンにとって大事なことは幾つもある。 だが、一番大事なことは、イエスと自分の関係を聖書からはっきり知ることだと思う。 自分の感じ?考え?惰性?経験?すべてNO!である。 生きるはキリスト、死ぬこともまた益である、とパウロは言った。 ここで言う死とは、いわゆる肉体が死に行くことである。 だが、その前に考えるべき大切な死がクリスチャンにはあるのだ。 それはキリスト信じた時に、古い私は十字架でキリストと共に死んだという死である。 だから今は新しい霊性によって生き、新生した者なのだ。
新約聖書 / ヨハネ福音書
- 2017年6月4日
■あなたは誰のもの?/ヨハネ17:1~11
例えば、世の中の夫婦の心を覗いて見たとして・・・ 結婚したての男女の思いは・・・ 私はあなたのもの、あなた私のもの、であったとする。 実に美しかったのである、あの頃は。 欲しい物など何も要らなかったのではない、買えなかっただけである。 それでも他には何も要らなかった、物などは。 お互いが目の前にあるだけで、生きている幸せを実感していたのだ。 結婚生活30年経った夫婦の場合・・ いつの間にか二人の間の温度が変わっていた。 私のものは私のもの、あなたのものは私のもの、あなたのものなど何もない・・ ヨハネ17章の中で、イエスが父に祈っている。 「わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのものです、父よ。」 美しいやりとりである。 ここで「やりとりされているのは何か」というと、それは当時の弟子達であり、後にイエスを信じて救われたクリスチャンのことである。 父とイエスが最高の宝をやりとりされている。 その宝とは、私達クリスチャンである。 文字通り、「わたしのものはあなたのもの」です、なのだ。 そんな価値が私達にあるのだろうか?と感じるのは人間であっ