■ イエスが一番 / ルカ19:1~10

キリスト教会、様々な取り組みの中で一番の試練は献金のお願いや催促であろうか。 信徒側も嬉しく感じている者は多くはないと思う。 本当は自分の信仰に対するチャレンジであるのだが。 人々からすれば口が裂けても「お金が一番」とは言えないものであるし、思わず我が信仰 の不甲斐なさを見させられてしまう時である。 だから私は常々言う。 あなたの神は「金か?神か?」 正直に言えばいいのだ。 「私は金が一番です」と。 後付けになってもいいから、いつか近い日にイエスが一番ですと言える者になりたい、はどうだろう。 ここには前向きもあり、未来志向もあるではないか。 もし、そうでないなら、「イエスが一番です」と言うべし、であると思わないだろうか。 暫く前に面白いギャグを聞いた。 アメリカの或る教会で、新会堂建設の取り組み真最中のこと。 多額の会堂建設費に対して、牧師は教会を励ましたかったである。 朝の礼拝で彼はこう切り出した。 「皆さん、私はグッドニュースを持って来ました。実は、私たちの会堂建設費用は既に満額満たされました!」 会衆は喜びと安堵の気持ちからか、拍手をする者も幾人かいた。 また狐に鼻をつままれた様な顔つきの信徒もいたが、牧師は平然としていて笑顔だった。 少し間を置いて、牧師はもう一度気を取り直したかの様に言った。 「実は・・・バッドニュースもあるのです。でも、そのお金は未だ皆さんの銀行口座にあるのです。」 笑うに笑えない、何とも言えない空気が礼拝堂を満たした。 人間、あまりに生々しい場面に置からである。 カネは大切である。 この世を支

■ Young Rich Ruler / マタイ19:16~26

1978年のクリスチャンホーム・カレンダーのことは今も忘れない。 カレンダーの画はイエスを真ん中にして、左右両脇に二人の男性が描いてあった。 一人はリッチで綺麗な身なりをしている若者。 もう一人は貧しく年老いた人だった。 イエスが若者に何か語りかけており、老人を見やっているものだった。 「あなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人に分け与え、そのうえでわたしについて来なさい。」(マタイ19:21) そんな場面だった。 若者の目は困惑し、もの悲しそうに描かれていた。 それは非常にインパクトがあり、三人を見る私が現場の傍観者として、彼らを見ている思いだった。 「Young Rich Ruler」と画の下にタイトルがあった。 つまり「若い金持ちの支配者(直訳なら定規=理性、道徳律などの象徴)とでもとれるが、私は和訳せずに英語名で記憶した。 そのほうが彼をあるがまま表していると感じたから。 それは僅か数か月前に33歳で信仰を持ったばかりの私だった。 若者は自分の秤で自分を量り、彼の道徳性を評価し、それを基準にして生きていた。 寸分の狂いも認めず、律儀を自身に当て嵌め、自らの誇りにしていたのであろうか。 何不自由ない人生で、「間違いを犯さない」ことが彼の看板だったのであろう。 十戒は端から端まで暗記し、ひとり悦に入っていたのかも知れない。 彼がイエスの前に進み出たのは、そんな自信に満ちた日々の中だった。 「先生、永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょう?」 そんな言葉を言える程に、我が身と生き方に満足していたのか。 イ

■ 一縷の望み / ヨナ書3:10~4:11

藤井聡太君、14歳2か月で将棋の四段となり、はれてプロ資格を得て棋士となった。 天才より上の「大天才」だと、加藤一二三、九段が言っておられた。 一体、何手先まで読むのだろう。 いつの日か最高峰の九段となり、名人位に就く日も来るだろう。 縁台将棋が関の山の私にとって想像出来ない、異次元の世界を歩んでいる。 私とて子供の頃、将棋を覚えたが、目の前の一手しか読めないから、常に出たとこ勝負である。 でも、将棋の駒から人生を学ぶことは幾らでもある。 「歩」という駒は、数は多いが頼りない兵隊だと当時は思った。 一コマしか前に進めないし、大概は敵が責める弾除け程度の任務である。 だが敵陣に入った途端に、歩は「金」に成る。 決して馬鹿にしてはいけない「足軽」なのだ。 もう一つ、チェスと違って将棋の駒は取っても単なる捕虜で終わらない。 こちらの手に渡れば、頼もしい味方になって戦う助っ人だ。 誰が考えたか、色々な決まりや妙味があって、飽きないゲームである。 クリスチャンにせよ生まれたてでは足軽にも成れない赤ん坊である。 だが、聖書の言葉という乳を飲み、おむつを替えて世話してもらえば、いつか花が咲き実もなるのだ。 「歩」の如き存在でも、いつかは敵の王将の首を取る力さえ持つ。 足軽だって聖書の言葉に従って育てば、いつか立派なキリストの兵士になれる。 キリストに育てられ、キリストに生き、キリストという名人位に動かしていただいて生かされたい。 ヨナ、愛すべき存在である。 彼の自国を思う熱い一面は当然と言えば当然であるが、短絡的であり自分に正直な面は中々憎めない

■人生で一番大事なもの / マタイ9:1~8

脳卒中で身動き出来ない男性がいた。 ある日、ナザレのイエスが近所の家に来られたらしい、という情報が飛び込んだ。 そこで男達は病人を戸板に寝かせたまま、その家に運んだ。 ところが家の中は大勢の人で立錐の余地もない。 ましてや寝かせたまま、運びきれない。 そこで男たちは病人を屋根に運び上げると、屋根を剥がし、イエスがおられるあたりへ検討をつけ、病人を吊下ろした。 日本の家屋と異なり、中東の屋根はせいぜい露を凌ぐだけの簡素なものだった。 だが、幾ら何でも他人の家の屋根を剥ぐとは、かなり荒っぽいものだった。 つまり、それ程にこの病人を治してやりたいと思ったことと、イエスの所に連れて行けば何とかして下さると信じ込んだからだった。 目の前に下ろされた病人と、彼を吊下ろした男たちの信仰を見てイエスは言われた。 「子よ、あなたの罪は赦された!」 信仰とは、必ず見えるべきものとなる、という観点を忘れていまいか。 確かに信仰は心、腹、そして胸、頭、すべて内在した場所で息づいているのかも知れない。 しかし、信仰は黙っていない。 内に貯めているだけで信仰は育たない。 外へ向かって出たい!これがキリスト信仰だ。 イエスはそれを見られた。 この場面、イエスの言葉を人々はどう聞いたかだ。 反応は様々だった。 予想外のイエスの言葉に思わず「えっ!」と思ったのは、吊下ろした男達であったかもしれない。 彼らは、そういう言葉を聞くために難儀をして、病人を降ろしたのではなかった。 イエスの「子よ、癒されよ!」という声を期待したのだ。 人間が求めるものと、神が求められ

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