■主は断念されたのか/創世記8:13~22
大雨は40日40夜ふり続き、地のすべての生き物である動物、鳥、人間は水の底で息絶えた。
と、聖書は言う、創世記7章22節。
『いのちの息を吹き込まれたもので、乾いた地の上にいたものはみな死んだ。』
創造主はご自分が造られた地上の生き物達すべてを消しさられた。
自然界に罪があったのか?
無い!
人間の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いたからだ。
創造主は地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められたと書いてある。
聖書の神は全知全能の神である。
決して間違いを犯さない方である。
それは、すべてをお見通しだからである。
自然界はすべて神のご支配に従ってきた。
だが、人間は違った。
ならば、それを見通せなかった神の過ちなのだろうか。
人が自由意思をもって創造主の前に生きることは、神の御意志である。
人はロボットではない。
創造主は人が自らの意志によって、主を礼拝することを願われた。
だが、人間は神に向かって反旗を翻した。
その心はいつも神の御心の反対を選んだ。
放ってくと益々、その先へ突っ走る。
結果、主は地上に人を造ったことを悔やまれた。
主はアガペー(無限の愛)をもって人に接して来られたのに。
主は限りなく御心を痛められたのに。
「見よ、それは非常に良かった!」と、創世記1章の終わりは言ったのに。
ノアの時代、人間は限りなく神の前に堕落し、地は暴虐に満ちていたと聖書はいう。
やはり、人間とは自由を取り違える生き物だった。
要するに我々は『本当の自由』を知らない生き物なのだ。
イエスを知らない人生で生き続ける限り・・・・
大雨が終わり、その後何カ月も掛かって水はひき、地は渇き始めた。
箱舟から出たノアが最初にしたことは、主を礼拝することだった。
全焼の「生贄」の香りは空へと立ち上り、創造主への「なだめの香り」となった。
そして主はいわれた、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことはすまい。すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい。人の心の思い計ることは初めから悪であるからだ。」
人間のゆえに、創造主である神は苦しみ悔やみ、人間のゆえに自然界の生き物は犠牲になった。
昔、読んだ本で修道僧が吐露した言葉を思い出す。
「神よ、私の存在そのものが罪なのです。」
痛くて重い告白だった。
自然界が造られた目的は何だったのか。
それは人のためだった。
月、星、太陽、雨や雪、人が生きるため、人生を楽しみ、人生の潤いとなり、動物や鳥、魚、虫や蝶、山や川、海と湖、すべて人と共にと生きるため、そして自然界を造られた創造主の御配慮を計り知るために。
目に見えない御霊なる方は、人間の目と心を癒すためにも自然界を造られた。
わたしは雲の中に虹を立てる。
それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。
私たちのちっぽけな頭と想像力で、創造主を思い計ることは出来ない。
遠い宇宙、何億光年という距離など想像も出来ない。
つい最近、目にすることが出来た「ブラック・ホール」の姿と全体の距離と大きさなど、幾ら説明と数値を教えられても想像できなかった。
だが、創造主にとって、あの宇宙さえ足台でしかない方が、私の神と言われると、その偉大さの前に平伏するしかない方だとわかる。
なんとも耳のいたい手紙があった。
「キリスト不在」というタイトルで書かれたもの。
『昔、イエスの時代には、病の人たちを初めとして、苦しむ人たちはこぞってイエスを求めて集まったものです。
でも今の世は、この世で恵まれた人たちが教会に来るのです。
体調が悪くて休んでいたい、場合によっては病院に行くので礼拝を休みます。
牧師は思う、「そうですね、そんな状態では大変ですよね。」
そうですね・・・、キリストが留守だから当然なのです。
病気だから、苦しいから、困っているからキリストに出会いたい、癒して欲しい。
でも今は・・・・キリストがいない。
そうだろうか、キリストのいない礼拝。
キリストのいない集会。
それって、なに・・・?
だって、どこの教会でも「○○〇キリスト教会」って看板背負ってるではないですか。
・・そうか、皆でイエスを背負ってるんだよね、看板とおんなじで。
いつの間にか、そういう教会になってしまったんだろうか。
イエスに背負ってもらってないってことが問題なんだよな。
本末転倒以外のなにものでもない。
悔い改めよう、それしかない。
病気の人も、教会側もイエスに背負ってもらうのだ。
そこにこそ、キリスト不在でなくなる教会の秘訣がある。
「主イエスはナザレの村で力あるわざが出来なかった。」とマルコ6章5節に書いてある。
その理由は、故郷の村人がイエスを信じなかった、からだった。
『イエスは彼らの不信仰に驚かれた・』マルコ6:6
主よ、驚かせるばかりでごめんなさい、たまには別のことで驚かせたいのですが・・信仰が薄いもので。
(あ~、また言っちゃった。信仰はイエスさまからいただいたものなのに。)