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新約聖書/マタイ福音書
- 2020年3月29日
■神の国の1デナリ/マタイ20:1~16
マタイ20章「葡萄園の主人」の話は読む者の心を優しくもチクチクと刺す。 であるのに、決して切り捨てて来ない。 何十年もこの箇所を読んできたが、今回は視点を変えることができた。 話自体は、葡萄園の主人が労務者を雇うために一日五回も町の広場にたむろしている労働者に足を運んだこと。 早朝雇われた者には「一日1デナリ」という約束だった。 九時に雇われた人には、金額は言わずに「相当のものを上げるから」だった。 それから12時、3時、5時にも雇われた人がいた。 驚きである、こんな会社が御国にはあるんだと。 五時から雇われた者は、1時間後に1デナリを手にしてウハウハだった。 それを見て早朝から働いた人たちは幾ら貰えるかとワクワクしていたので大いに憤慨した。 当然ではある。 そして主人は言った。 「私は何も不当なことはしていない。約束の1デナリを持って帰りなさい。」 この話を読む度に、差別待遇をどう乗り切るかと考えるも、自分はやっぱり五時から男なのだから、に行き着かざるを得ない。 しかし、今回はいつもより素直に聖書に向かってみた。 それは冒頭、出だしの言葉が胸に
新約聖書/使徒の働き
- 2020年3月22日
■ガマリエルというひと/使徒5:27~42
この世でまだ「キリスト教会」と呼ばれていない時代があった。 いわゆる原始キリスト教会時代であるが、当時の弟子と、信徒たちが見上げていたものは、復活のイエスご自身と、その「イエス・キリストという御名」だけだった。 彼らには余分な神学や解釈などなかった。 つまり人の心を難解にし、捏ね繰り回すものが無いため、純粋で一途の大胆と勇気があった。 迷うことも脇道も無いという、真っすぐな信仰姿勢に反対する相手は同様程度の熱い敵も多かった。 彼らはユダヤ教徒、ラビ、議会、祭司達であったが、決して100%が猛反対する人たちではなかった。 パリサイびとやそのリーダー達の幾人かは、イエスに関しては好意的に見ていたし、心動かされた人たちも少なくなかった。 キリストの使徒と弟子たち、信徒たちの確信に満ちた伝道によって、エルサレムに住む多くの人たちが福音にとらえられて行った。 凄まじい程の勢いでイエスの御名が讃えられ、民衆がキリストに立ち返る景色はユダヤ教からしてみれば脅威の的であった。 「このままではいけない、あいつらを何とかして早く始末せねば。」当然であった。 特に先頭
新約聖書/使徒の働き
- 2020年3月15日
■見よ、主のしもべ達を/使徒4:16~31
第二コリント6:2節 神は仰せられた、「見よ、今は恵みの時。見よ、今は救いの日。」 この「見よ」とは、今生きているこの瞬間、この環境、この時間に於いて、上なる神を見上げよ、である。 イザヤ書49:8 主はこう仰せられる。 「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」 もし、あなたがクリスチャンであるなら、主があなたに臨んだ過ぎし日を思い出して欲しい。 あなたの魂に語り掛け、あなたに霊を賜り、臨まれた主キリストとの出会いの日を。 もし未だ、あなたが救われていないとしたら、あなたに救いを与え給うお方が、あなたの心に問いかける時が来る。 それはいつなのか、誰にも分らない。 どのようにしてかも分からない。 やがて後、知るのは、あなたとあなたのキリストだけである。 その時にあなたが何をしていようと、何を考えていようと、「神の時」到るなら、それは必ず来る。 旧約聖書の中で年代は異なるがヤコブという人と、モーセという人が登場する。 この二人、時代も環境も生き方も違ったが、共通点があった。 一つに二人とも逃亡者であったということと、両者共にヤ