■我誇るもの一つだに無し/マルコ10/17~27
イエスが私たちにしてくださったこと。
先ず、私たちがどんな形であれ、救いの招きに応えて「はい、主よ、あなたを信じます。受け入れます。」と決心した瞬間、人生のすべての罪を赦して下さったのである。
それは文字通り、赦された=救われた、のである。
更に、赦されたということに自ずと付随して、「永遠のいのち」を与えられたということである。
つまり、イエスを信じたので三つの「とてつもなく尊い特典」がついてきたのである。
主は何と気前の良い方なのであろうか。
これから、どんな人生を送るかどうかも分からない輩共を、少なくとも三つの大きな宝まで惜しげもなく無償で与えられたのだから。
どれもこれもこの世では手に入らないものばかり。
それどころか、さして求めようともしなかったものさえも付いてきた。
汗を流すことなく、苦しむこともなく、努力もせず、ちょっとばかり内面を掃いたか、拭いた程度に過ぎなかったのに。
この有難さを、どう表現しようかと考えても出て来ない。
そりゃそうだ。
貪欲に生きてきた肉の塊なんぞに分かってたまるか、というもんだ。
逆立ちして頭を振っても叩いても、聖なる知恵など出てこない。
その方こそ、アガペーという愛を、惜しげなくも配られる主であり、生ける神なのだから。
アメリカの画家が描かれたと思うが、一つの聖画がある。
「Young Rich Ruler」という画題。
その年、ことば社の1978年クリスチャン・ホーム・カレンダーに使われた画である。
右側にいかにも高価な衣服を着たハンサムな青年がおり、左端に貧しくやせ細って弱った老人が描かれ、真ん中のイエスは老人の存在をを指し示すかのように手を差し伸べつつも、イエスの目は青年を見つめている。
青年はというとは何か焦点がさだまらない様な表情で、既に目線はイエスから離れている。
マルコ10章の場面である。
42年前、信仰に入って数カ月の時、悶々としていた或る日、「その画」と睨めっこ状態だった。
あたかも、主が私の今と人間性を見透かされたかのような瞬間だった。
「・・・どうだ、今、あなたは何を思っている・・・」
そのとき、生まれて初めてイエスという方を、心の目で見つけた思いがした。
そして、はじめて主に従う一歩を行動として踏み出すことになった。
生涯忘れ得ぬ時間だった。
残念乍ら月日を覚えていない。
それはともかくとして画自体は忘れられないものとなった。
Young Rich Ruler (ヤングリッチルーラー)、「若い資産家の支配者」が直訳である。
「永遠のいのち」を、イエスに求めた青年である。
道を歩いておられたイエスの前に走り寄ってひざまずき、「尊い先生、どうしたら永遠のいのちを手に入れられるのでしょう。何をしたらよろしいのでしょうか。」
イエスは彼にいわれた。「尊い方は神おひとりの他には誰もいない。戒めはあなたもよく知っている筈だ。殺してはならない。姦淫してはならない。偽証してはならない。盗んではならない。父と母を敬いなさい。」
青年が膝を叩いたかどうか分からない、待ってましたとばかりに答えている。
「先生、私はそのようなことはみな、小さい時から守っております。」
イエスは彼を見つめ、そして慈しんでいわれた。
「では、あなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人たちに分け与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
イエスの言葉に青年は悲しそうな顔をして去って行った。
彼は多くの財産を持っていた。
青年は真面目なひとだったと思う。
律法にも前向きに取り組んでいたであろう。
だが、青年の視界に神の存在は含まれていなかった。
自分の実直性と行動、道徳性は見えていたかも知れない。
だが、永遠のいのちとは人が造るものではなく、神が与えられることまで考えられなかった。
彼の生き様が天につながっていなかったからだ。
クリスチャンはイエスを信じたので、御霊の神の助けを得て、直接的に神をイメージし、思い描くことさえ出来る。
それは内なる方が見させてくれているからだ。
クリスチャンとは信仰によって、イエスを受け入れた人々である。
そう、イエスを、彼を受け入れたに過ぎない。
何らの手柄も勲功もない。
当然の如く『我誇るもの ひとつだに無し』である。
私たちは行いに於いて、自分を立証することなど不可能。
ただ、キリストを信じる信仰によって、救われたのだから。
「栄光は主に、恥は私に」と小さく呟きつつも、心のどこかで恨めしい思いが騒ぐ悍ましさ。
すべてのすべては神の憐みと勲(いさおし)によって、今があるのに過ぎないのだ。
どれ程の善行を積んだとて、救いは得られない。
如何なる好意と手を尽くしても、罪の赦しなど得られない。
この世に尽くす努力とて、永遠のいのちはついてこない。
イエスの十字架とよみがえりの信仰に与る以外に道はない。
今までの人生で、こんなに簡単で、どれ程の金を積んでも得られない、どえらい価値あるものなのに、その価値が分からない人間と今更ながら知った。
『人には出来ないが、神はそうではありません。神にどんなことでも出来るのです。』