■私のイエス観/ヨハネ17:1~10

遠い昔、伝道者は言った。 「私は事業を拡張し、邸宅を建て、葡萄畑を設け・・」(伝道者の書2章) これって、本当に遠い昔のことか?と錯覚してしまった言葉である。 「私は目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをし・・」 人間社会の昔と今は全く同じでないか。 「しかし、私が手掛けたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんとすべてが虚しいことよ。」つまり、伝道者は嘆いている。 なにも事業を成功した人すべてが嘆いているとは言わないが、果たして人の一生とはなんだろう。 詩篇の作者が思わず「ふぅ~と息を吐いた」か、どうか分からないが・・ 「主よ、あなたの指のわざである天を見ますのに、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。」詩篇8編3節 彼は間違いなく迷っているのだ。 主よ、なぜあなたはそれ程までして、人を思い、人を愛して下さるのですか? 時として、クリスチャン達が独り思いを馳せる時もあるだろう。 神の愛の高さ、深さに圧倒されるのだ。 答えになるかどうかは分からないが・・ それは、「神が人を造られた」だからである。 創造者はご自分のわざによって、人間とこの世界を造られた。 光を呼び出し、夜と昼を分け、自然界と生き物を造られ、配置された。 被造物世界の中心に創造者はひとを置かれた、だから神は人に対し、愛おしいと思われたのである。 神の最高の愛、それは御子イエスをこの世に遣わし、人類を罪から救済するためにイエスを十字架につけ、罪の贖いの代価とされたことである。 それは全ての人類の為だった

■マンツーマン/ルカ9:23~26

1986年、クリスチャンになって8年、教会のこと、聖書のこと、人間と神、「大体わかったなぁ」と傲慢に構え始めていた頃だった。 「こんなもんかな、教会とは」それでも、毎週礼拝にはきちんと通っていたし、教会学校の奉仕もしていたが、燃えるものは今一つ無かった。 「イエスさまにせよ、こんなもんじゃないの。」と、高を括っていた私に突然飛び込んだ話。 何かよく分からないけど、何かのオリエンテーションがあるらしいよ、ということで顔を出してみない?と誘われ、顔を出すくらいならと軽く受け流した。 「分からないだらけ」は疑う心さえ用意させなかった。 その「何だか分からない」ことの御蔭で、私の人生は180度激変した。 「何だか分からない」が幸いしたのかも知れない。 あのザアカイだって、いま一分からないイエスを一目、と思っていたのが、とんでも無い結果になった。 神のなさることって、ユニークでユーモアがあって、抵抗する気にもなれないんだなぁと、後になって理解した。 それから10か月後、私の中には「イエスの弟子」という言葉がつきまとっていた。 以来30年、イエスは「私の親分」から「私の師匠」へ、そして今は「私の牧者」になってくださった。 彼はいつでもマンツーマンで向かい合って下さる。 イエスは、はるか彼方の神の国におられるのではなく、私の身の周り、心に、内に、常に一緒におられるのだ。 35年前、「はい、私はクリスチャンです。」などと滅相もないものだった。 当然ながら「日曜日は教会に行っています。」などとは、口が裂けても言えなかった。 聖書は「座右の書」ではなかった。 でも、日曜日はしっかりとクリスチャンを

■私のイサク/創世記22:1~13

「試練」という言葉はどの様にして生まれたのだろう。 私個人は聖書信仰から生まれた言葉であると思う。 理由は国語辞典の説明であるところの、「試練とは信仰、決心などを厳しく試すこと。」とあるからだ。 聖書において、登場人物の殆どが試練を与えられた。 つまり神が人々をテストされたのである。 アブラハムがようやくのこと、イサクという跡取りに恵まれ、人生の集大成を迎えた頃だった。 創世記22章1節が言う。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。」 神は「出来事の後に」アブラハムを試練に会わせられた。 それは神の恵みと祝福を山と施した後、アブラハムがどの様に神を考えているか、ということだった。 山の様な祝福とは、アブラハム夫婦にとって絶対に不可能なこと、つまり跡取り息子の誕生だった。 アブラハムもサラもその約束を聞いたとき、心で笑って言った。 『百歳の者に子供が生まれようか。妻にせよ、九十歳の女が子を産むことが出来ようか。』 アブラハム夫婦にとって跡取りの赤ん坊が生まれると言うことは、200%有り得なかった。 そして聖書は言う。 創21:1「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラに為さった。」 主がサラを憐れんだ、顧みられた、配慮された、のである。 ヘブル後の英訳は「主はサラを訪問された」という意味の言葉だった。 それはアブラハムの人間的な力とか行為でなく、あくまでも主の配慮によってである、と言う。 アブラハムは生涯、このことを心に刻んだ筈である。 私達が信じる主というお方こそ、このお方である。 人間の力を1%も頼らずとも、主は御心で赤子を孕ませる

■Perfect Love(完全なる愛)/創世記50:13~21

私は創世記、大好き人間である。 I LOVE GENESIS! 一つに私が救われるきっかけは新約聖書ではなく、旧約の創世記だったこと。 二つ目、創世記に登場する人間の生き方が好きなのである。 彼等はあからさまで、生々しく、嘘もついたし、神をさえ幾度も裏切った。 自分と彼らを比べてみても、なんら遜色ない。 情けない話だがその通りである。 それでも、彼らはあけっぴろげに、神の前を生きたり隠れたり、逃げたりしている。 それは彼らが地中海の渇いた熱い空気の中に生きたせいか、あっけらかんと見えて仕方ない。 実に人間そのものの本質性は創世記から21世紀まで何ら変わっていない。 おそらく人類ある限り、変わらないと思う。 聖書がそれを裏付けているからだ。 私自身、当初はアブラハム親分に憧れたが、ここ数年はヤコブ野郎に惚れ、彼の人生と人間性と創造主の関わりを楽しんだ。 ヤコブに呆れ、ヨセフに涙し、11人の兄弟達に創世記の完成を見た。 そして、その完成はイスラエルのスタートだった。 神が彼等を背負い、ヤハウェが彼等をずっと抱いて守られた。 文字通り、「神の嗣業」はヤコブ族の成長と400年間を経て圧倒的に増し加えられた民族への到達だった。 ヤコブ改め、イスラエルはこうして個人から部族へ、部族から民族へ、民族から国へと育てられた。 すべてはアブラハムにおいて約束された祝福の成就だった。 聖書の神、天地をおいて唯一生ける神ヤハウェによって。 ああ、神は何とイスラエルを愛して来られたか。 「主は荒野で、獣の吠える荒れ地で彼(ヤコブ族)を見つけ、これを抱き、世話をして、ご自分の瞳のようにこれを守られた。」申

■わたしは良い牧者です/ヨハネ10:1~16

イエスはいわれた、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」 ヨハネ福音書10:11 そう、イエス以外の牧者は、ひとのために命は捨てられない。 仮に、代わりに死んだとしても、他の魂を救うことは出来ないのである。 キリストだけが他者を救いなさる。 キリストの教会には牧会者としての牧師はいる。 だが、イエスのいわれる牧者ではない。 あくまで教会の世話をしたり、信仰生活の援助をしたり導きを助ける職務である。 救うのは牧師でなく、キリストである。 私個人としては「私は牧師1」ではなく、「牧師2」である。 本当の牧者はイエスである。 或る意味、主任牧師はイエスであって、私はイエスに仕える牧師2(副牧師的存在)である。 と公言してみたら何となく肩の荷が軽くなった気がしないでもない。 昔、クリスチャンになったばかりの頃、考えたことがある。 教会へ通い出して右も左も分からない頃だったのに、何故こんなことを考えたのか分からない。 『牧師とは、実に難しい職業であるが、もう一方では実に簡単なものである。』 難しいと思うのは、ひとりの人間として色々取り組むことの難しさを想像したからであり、簡単と考えた意味は、「自分が先に立って何かをするのでなく、イエスさまの仰ることだけしていれば何等難しいことはない。」と思った次第である。 短絡的と言えばそうであるが、あながち間違ってはいない様に思う。 私共の教会の牧師はイエスであり、私はあくまでナンバー2であるとしたら・・・ それを教会に宣言してみたが、皆それほど深刻に考えてくれた様子はなかった。 私の上におられる方はイエスさまか、「いいなぁ」とひ

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