■わたしは良い牧者です/ヨハネ10:1~16
イエスはいわれた、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のために命を捨てます。」
ヨハネ福音書10:11
そう、イエス以外の牧者は、ひとのために命は捨てられない。
仮に、代わりに死んだとしても、他の魂を救うことは出来ないのである。
キリストだけが他者を救いなさる。
キリストの教会には牧会者としての牧師はいる。
だが、イエスのいわれる牧者ではない。
あくまで教会の世話をしたり、信仰生活の援助をしたり導きを助ける職務である。
救うのは牧師でなく、キリストである。
私個人としては「私は牧師1」ではなく、「牧師2」である。
本当の牧者はイエスである。
或る意味、主任牧師はイエスであって、私はイエスに仕える牧師2(副牧師的存在)である。
と公言してみたら何となく肩の荷が軽くなった気がしないでもない。
昔、クリスチャンになったばかりの頃、考えたことがある。
教会へ通い出して右も左も分からない頃だったのに、何故こんなことを考えたのか分からない。
『牧師とは、実に難しい職業であるが、もう一方では実に簡単なものである。』
難しいと思うのは、ひとりの人間として色々取り組むことの難しさを想像したからであり、簡単と考えた意味は、「自分が先に立って何かをするのでなく、イエスさまの仰ることだけしていれば何等難しいことはない。」と思った次第である。
短絡的と言えばそうであるが、あながち間違ってはいない様に思う。
私共の教会の牧師はイエスであり、私はあくまでナンバー2であるとしたら・・・
それを教会に宣言してみたが、皆それほど深刻に考えてくれた様子はなかった。
私の上におられる方はイエスさまか、「いいなぁ」とひとり悦に浸ってみただけだった。
私が教会を守るのではない。
教会を守って下さる強く偉大な方がいるのだから、私はイエスさまの後に従うのみ。
但し、こんな癖のある人間がいつまでイエスさまの後にいられるか、かなり不安である。
「牧者でなく、また羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」
ヨハネ福音書10:12~13
確かにそうだ。
雇い人は雇い人でしかない。
自分の身が危なくなったら、さっさと逃げてしまう。
問題が起こったら机の下に隠れていたいのは、私だけではないだろう。
人の集まるところは自ずと問題が起こる。
それは『It is well』つまり、そうなるもよし、それもよし、とでも訳そうか。
教会とは、そういう場所であり得るが、どっこい大事なことを忘れては困る。
教会にはイエスさまという方がおられるのだ。
お寺にも神社にも、モスクにもイエスさまはおられない。
町内会にも市民会館にもイエスさまが居ないとしても、二人、三人の教会にせよ、イエスさまはおられる。
教会なら、仮にどんな規模の教会にせよ、イエスさまはおられる。
クリスチャン達よ、どうか教会を甘く見ないように。
あなたの教会にはイエスさまがおられるのだ。
大分昔であるが、こんな言葉に出会って以降、かなり気に入っている。
From under the Desk of someone just trying to stay out of trouble.
さしずめ、当時の私そのものであったのだろうか。
AMEN!だった。
イエスさまへの信頼度が今より、かなり薄かったのかも知れない。
一生懸命、自分が主の前に出しゃばっていたのかも知れない。
もしくは、あの時期イエスさまを見失っていたのかも知れない。
つまり雇い人みたいな自分だったのかも知れない。
『わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。』ヨハネ福音書10:14
実にアーメン、アーメンである。
兄弟姉妹、イエスはあなたを知っておられるのだ。
あなたがイエスを信頼しているとすれば、である。
キリストは信者を信頼しておられる。
神がクリスチャンを信頼しておられるのだ。
当然である、クリスチャンは神の子ども達なのだから。
この世で子供を信頼出来ない親はいても、天の父はキリスト者を信頼しておられる。
クリスチャンは主から信頼されている。
であるなら、「単に信じています」ではなく、「主よ、私はあなたを信頼しています」
に、なろう。「信じて頼る、だから信頼である。」
『それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。』10:15
なんという関係だろうか。
天の父と御子の関係の如く、イエスとあなたもイコールだと主は仰ったのだ!