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旧約聖書/創世記
- 2018年11月25日
■神のテリトリー(領域)/創世記24:1~15
アブラハムがひとり息子イサクの嫁さがしに腐心していた頃。 彼等が住んで居たカナンの地にも、アブラハムという族長の跡取り息子イサクに娘を嫁がせたい親は十分いた筈である。 だが、五穀豊穣の男神、女神を祭りあげているカナン人の地には、イサクに相応しい嫁候補は求めなかったし、宗教モラルに関するアブラハムの心の隙間は1ミリ程も無かった。 それはヤハウェなる神、唯一まことの生ける神を家長として信仰して行くことが、彼の唯一の目当てだったから。 家長の神がヤハウェであるなら、妻も子供達も父と同様に主に仕えたのである。 アブラハムが自分の弟ナホルを思い浮かべたとき、可能性としてパダン・ハラムに住んでいる孫娘を想像した。 アブラハムが念には念を入れて約束を誓わせた相手は、長年仕える最長老であり信頼出来る男、アブラハムと思いが一つになれる忠実な「しもべ」だった。 ここにアブラハムが「しもべ」に誓わせた言葉がある。 一つ目、ナホルの住む町に行き、親族の中からイサクの嫁を見つけること。 二つ目、決してイサクを彼の地へ連れて行かないこと。 三つ目、その娘が「しもべ」について
旧約聖書/創世記
- 2018年11月18日
■?も悪くはない/創世記22:1~12
至極当前のことではあるが、人間は神を知り尽くす(見極める)ことなど皆無である。 但し、キリスト教が伝える神は、人間の魂を救済するために、ご自身がひとのかたちをとってこの世に降りて下さった(クリスマス)ことで、信徒としては神を知ることにかけて大きな助けとなった。 そして日々聖書を読み、礼拝に出て同信の友と知識を高め合って行くと、何となくというか、神を身近に知ったという思いは増し加わる。 だが、単に聖書の中で知り得た知識を並べることだけを主が求めておられるとも思わない。 そして、イエスの言葉が響いてくる。 「子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決して其処に入ることは出来ません。」マルコ10:15節 子供の様に・・・小さく弱く、未熟で低い者となれ・・・。 僅かなことで高慢になり、外向きは謙遜の様でも内側は尊大な者では、パリサイびとそのものである。 考えれば、クリスチャンほど身丈半分の心を求められている存在は他に無いかも知れない。 それは唯一、まことの生ける神に直接的に関わっているからだ。 主ご自身が、すべての栄光と誉と御座を捨て、この世という人
新約聖書/使徒の働き
- 2018年11月11日
■アンテオケの夜明け/使徒の働き11:19~26
シリヤのアンテオケ、その地はイエス・キリストが世界宣教への足場を固められた地であった。 イエスが復活され、そして天に挙げられた後しばらくは、救い主イエスという存在はユダヤ人だけのメシヤ観だったこともあり、イエスの死と復活の福音情報はユダヤ人だけにしか語られなかった。 ところが、キリストの弟子迫害により離散して行った人々の中には、生まれて何世代かを外国で生きて来たユダヤ系の人がいた為、アンテオケに到着して以降、彼らはギリシャ人にもイエス・キリストに関する情報が伝えられため、「救い主イエス」を信じ受け入れる異邦人が多数現れ始めた。 聖書は言う、「主の御手が彼等と共にあったので、大勢が信じて神に立ち返った。」 福音伝達、そして救霊拡大に必要なことは、働く人間が必要であること以上に肝心なことは、「主なる神の御手が彼等と共にあった」ことだと思う。 人間が計画して、人間が実行するだけなら、それはこの世の作業でしかない。 福音の拡散・拡大は奉仕する者達が、彼らの上に神の御手が置かれたことを意識するに掛かっている。 主に呼ばれ、遣わされて、用いられてこそ、福音は
新約聖書/ヨハネ福音書
- 2018年11月4日
■イエスは神/ヨハネ2章:13~25
克己心(こっきしん)ということば、自分の弱さを克服しようという心意気だと言う意味。 ひとそれぞれは大方が取り組んで来た、己の心を鍛えること。 ああ、それなのに、それなのに・・・ 見事な惨敗ぶりだった。 箴言18:14が言っている。 『ひとの心は病苦をもしのぶ。しかし、ひしがれた心に誰が耐えるだろうか。』 人の心は鍛えることが出来るのか? あのパウロだって結局負けたではないか。 「ああ、私はなんと惨めな人間なのでしょう。誰がこの死の身体から、私を救い出してくれるのでしょう。」 だが、パウロは他のひととは、かなり違うぞ! そう、彼はイエスを知っていた。 彼は言う、「私達の主イエス・キリストのゆえにただ神に感謝します。」 「イエス・キリストは神の御子~、」なんて言っても決して悪くはないが・・ 但し、私は大声で言いたい、「御子、御子と言ったって、神社で白い着物に赤い袴の巫女ではない!」 もう一つ、「御子イエス、御子イエスと教えられてその気になっている方々、イエスは父の半分にも満たない存在で、いつも跡取り息子で、いつもお父さんの後ろに控えている自信無げな方