■「人は肉にすぎない」/創世記5:24~6:5
主であるキリストを信じる人は多い。
だが、キリストと共に生きようとする人は少ない。
ましてや、キリストに従う人は更に少ない。
イエスさまの弟子達12人は、イエスご自身が直接的に彼らを選び、呼び出されたメンバーである。
マタイ伝で早々に登場する弟子たちであるが、イエスは並外れた力を彼らに授けている。
主に呼ばれて間もない頃の男たち。
特に弟子としての訓練を受けていなかった。
だがイエスが彼らを見込んだのである。
イエスが彼らを信頼したのである。
この辺を考えただけで、「イエスは凄い!」と思わざるを得ない。
伝道、キリストの弟子、どう考えても何一つ不適当に思えてならない面々だった。
しかし、である。
私達はいかがであろう。
「イエスを信じます。」という、ひと言程度で、私たちすべては、既に一丁前に信頼されたのである。
信用されているとは思えなくても、それは自分の感想に過ぎないのだ。
比べて、あの12人は朝から晩までイエスと一緒だった。
舟も網も仕事さえも捨てて、イエスに従って行った。
増して私たちは何十年もクリスチャンをやって来たし、聖霊さえも与えられたのに、である。
いつの間にか、私は上から目線だけで12弟子を見下していたのに気がついた。
ノアが五百歳になったとき、セム、ハム、ヤペテを生んだと聖書はいう。
この辺で躓かないでいただきたい。
聖書はまじめに五百歳と言っている。
色々言いたいことはあっても、まずは聖書を信じることである。
聖書は科学誌でもなければ、歴史の書でもない。
道徳の書でも、趣味の書でもない。
信仰の書、神の言葉が聖書である。
それを馬鹿らしいと考える人は圧倒的におられるだろう。
だが、信仰とは「馬鹿らしい」を超越し、時空をはるかに超えた真理の言葉なのだ。
面白いことに、クリスチャンになった後に自分を振り返ると、ある意味「気違いじみた人生」を送っていたことを思いだす。
文字通り、冷や汗脂汗タラタラだ。
いや、値打のないことをしていたのは自分であって、人生そのものは二度と帰らぬ貴重な時間だったのである。
ノアの時代、人間が地上に増え始め、彼らに娘たちが生まれた、とある(創世記6章1節)。
そして「神の子らは、人の娘たちがいかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで自分たちの妻とした。」
この辺で「神の子」という表現が登場するが、神の子らとは主を信じ、従うべく生きていた者たちと考えられる。
次に「人の娘たち」とあるのは、主である神を否定し、人生に神不在の生き方をしていた人達と考えられる。
つまり、その結果地上には悪が増大し、その心は悪いことだけに傾いた。
昔も今も変わらぬは人間である。
文明はどれ程に変化しても人間だけは変わらない。
多少は善だの正だのを考える人がいるにせよ、大方の人間は悪に向かう生き物でしかない。
人類の知恵知識が進んだ結果、何が起こったか。
人類は一発の核弾頭で一つの国、広大な地域を破壊する物を創り出した。
それを持つことこそ、世界を制することが出来ると信じた。
それによって、他国の攻撃を排除出来ると錯覚した。
だが、他国どころか自国も含めたこの地球すべてを破壊し尽くすことは勘定に入れてなかった。
ノアの時代、創造主は吐露しておられる。
「わたしが創造した人間たちを地の面から消し去ろう。
人をはじめ、家畜や地を這うもの、空の鳥に至るまで。
わたしはこれらを造ったことを残念に思うからだ。」(創世記6:7節)
つまり人間の罪は、自然界と生き物達までも滅びの世界へと追いやった。
聖書は真理である。
神の言葉である。
すべての人類は目と耳を集中すべきである。
「自分達は知恵があり、知識があると思うならば・・・
信仰など、弱者の逃げ場所などと言う前に・・
聖書のことばに心を留めるがよい。」
非文明時代、非文化の時代、超アナログの時代、紙も電気も無かった時代、ノアの時代に創造主が嘆いておられたではないか。
聖書によって、主はことばを残されたではないか。
比べて今はどうだろう。
ノアの時代の幾万倍も悪い時代となってしまった。
主の言葉の直後、聖書は言う。
『ノアは正しい人であって、その時代にあってもまったき人であった。
ノアは神と共に歩んだ。』
正しい人を目指しても正しくは生きられない。
しかし、神と生きようとするとき、神が人を正しくしてくれる。
それは人間が考える正しさではなく、神が導く正しさこそ、真の正しさだからである。
だから、キリストと日々を生きよう。