■ 弟子道/ヨハネ6:48~59

イエスは言われた。 場所は安息日にユダヤ人が集まるシナゴーグ(会堂)。 「わたしはいのちのパンである。これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがない。」 イエスは、人々に向かってご自分を食べよ、と言われた。 そして今もそう言われ続ける。 それは物理的に彼を食べるとか言うのでなく、真理として結果的に食べることになると仰せられた。 「わたしはいのちのパン」これこそキリスト教の根幹を示すといえることばである。 わたしを食べなさいとは、イエスを見上げ、イエスに信仰と人生の焦点を合わせ、イエスと生きる、イエスと暮らすことである。 いつの頃からか、「キリスト教」と世は言うようになった。 教会も「キリスト教会」と看板を掲げている。 では、本当にキリスト教をしているかというと、何処から何処までがキリスト教なのか分からない位広い空間である。 まぁ、あまり細かく言わないのが良いのかも知れない。 その広さだって人間が作ったものだし、皆自分達こそ正しいと思っているのだから。 だが、肝心の根幹を知らなくては目指す方も、方向も分からない。 「要するに、正しい人、良い人になることだよ。」と言われそうだが、そういう人ならあちこちにいるし、別に宗教をしなくても構わないだろう。 では、なぜキリスト教でなければいけないのか? それはイエスに出会って信じて救われる、つまり魂と人生をリセットして下さるのはキリストだけだからである。 人間は物理的に生まれ変わることなど出来ない。 もう一度、母の胎に戻って生まれ変わったと言っても、やはり罪びとは罪びとでしかない。 そ

■ 人の子は安息日の主です/マタイ12:1~14

1978年7月、私がクリスチャンになって4か月目の頃、一冊の本に興味をもった。 「沈黙」、遠藤周作先生の著である。 徳川時代、キリシタン迫害と追放の時代に日本布教を目的として海を渡ってきた宣教師の話である。 命を賭して航海の旅を経て、文化も風土も異なる極東の島国へ渡ることだけでも大変なことであった。 更にキリシタン絶対禁制下の時代に突入している国に踏み入って布教すること自体、既に死地に踏み込むことだった。 頼りとするはただ一つ、神の御加護とキリストの導きを信じることだけだった。 司祭たちは生ける神を信じ、主の為に生涯の挑戦を甘んじて受けた。 ニッポンの救いのために。 上陸した時点から困難と苦難の極みが待っていた。 役人に囚えられ、飽くなき取り調べを受け、挙句の果ては棄教目的の拷問が待っていた。 最も苦痛だったのは、キリスト信者たちへの拷問を目の当たりに見させられ、宣教師自身の棄教に迫る踏み絵だった。 自身だけに対する拷問には耐えられた。 だが、キリストを仰ぎ、司祭を慕う信徒の苦痛の呻き声は耐えきれぬ苦しみだった。 信徒たちが既に棄教を認めたにせよ、司祭が踏み絵を踏まぬかぎり、信者達の死に向かう拷問は止まなかった。 彼らはこめかみに小さな穴を開けられ、内臓が下がらないように綱で体を幾重にもきつく巻かれ、汚物で詰まった穴の中に逆さ吊りにされた。 血は少しずつ絶えず滴り落ちる。 昼夜を問わず彼らの呻きは止まない、死ぬまで続く・・・ 司祭は祈った。 途切れなくキリストに助けを求め続けた。 だが、事態は変わらない。 神は沈黙を守られている。

■ イエスがいなければ/マタイ11:15~30

「イエスがいなければ何もできない」と歌い、「イエスがいなければ生きるすべなし」と歌う。 まことにそのとおりである。 まったく疑う余地なし。 キリスト馬鹿にならせていただいて間違いなかった。 だが成りきったわけではない。 糸の切れた凧の様に、どこか引っかかっている部分がある。 牧師として礼拝で講壇に立つ。 会衆を見渡して瞬間、思う。 イエスがいなければ、自分もそうだし、この人々だって此処にはいない。 当たり前のような顔をして毎週の礼拝に臨んでいるが、すべてはイエスがおられるからだ。 おられたのではない、おられるのだ。 今、生ける主はこの場所に人々の心に、そして天におられる。 私達にとってあまりにもシンプルで、至極単調であるみたいだけれど、地上に生きる人々とは全く違う次元である。 だが、時としてしっかり心に思い返さなければならないと思う。 イエスがいなければ、すべてが無いことを。 牧師は神から祝福を山ほど賜っている。 個人的に思っていることではあるが、その中でも特に大きな恵み・・・ 先ず、イエスをいつも考える、思いを馳せる等々の祝福。 次にイエスに出会えることを待ち望んでいられる祝福。 三つ目にイエスといつも一緒だと思える祝福。 思い出してみた。 弟子達はイエスが捕えられた晩からイエスを捨てて逃げてしまった。 逃げたが彼らは元の人生に戻ったわけではない。 彼らはイエスが健在でいた頃と同様に、仲間同士だった。 イエスがよみがえられて弟子の前に現れたにせよ、何かがピンと来たわけではなかった。 気分は空虚そのものだった。 私は、あ

■ 土台はキリスト/コロサイびとへの手紙1:21~29

人間は、その人生においてそれぞれは土台の上に生きている。 ここに「人は考える葦」と言われた言葉の意味があると思った。 ただぼんやりとあてもなく生きられないのが人間であると思う。 土台とはその人にとって信念であり理念であるかも知れない。 また希望であったり理想であったり、自身の主張であるかも知れない。 キリスト者にとって生きる為の土台とは何だろう。 もし生きるところに於いて絶対に動かない土台をと考えるなら、それはイエス・キリスト以外にない。 順境の日も逆境の日も、感謝な日も試練の日も、環境はくるくる変わったにせよ、同じ土台に留まり続けられるのが、キリストの土台であればこそだ。 そして信仰自体が求めるのも、変わらないキリストご自身である。 砂の上に家を建てた人は、大雨と洪水でいとも簡単に流された。 しかし岩の上に家を建てた人は雨も風も凌いで持ち堪えた。 イエスは聖書の中でこういっておられる。 「わたしのことばを聞いてそれを守る者は、岩の上に家を建てた(つまり人生を築いた)人である。」(マタイ7:24) そこで三つのことをお勧めしたい。 「一つ目、私たちは腹を括っているだろうか」 つまり、クリスチャンになったけど、クリスチャンをやって?いるけど、的が絞られていないため、結果的には楽しみだけを追いかけていないだろうか、ということ。 誰だってつまらないより楽しいことを望むのは当然である。 しかし、キリストの道はそういった安易な価値観の中で考えるべきではない。 楽しいから、リラックスできるから、リフレッシュできるから・・・ではない。 一度、人生の

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